山陽無煙炭鉱と大嶺無煙炭鉱時代の坑夫らの生活
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「大嶺炭田」の記事における「山陽無煙炭鉱と大嶺無煙炭鉱時代の坑夫らの生活」の解説
山陽無煙炭鉱と大嶺無煙炭鉱の並立時代、炭鉱では飯場制度が設けられていた。うち、山陽無煙炭鉱の飯場制度は会社の方針で設けられていたもので、飯場の親方は社員であり、坑夫もやはり社員ではあるが、炭鉱での労働、福利厚生は飯場が担っていた。つまり飯場は会社の一種の下請けのようなものであることには変わりはないが、一応、雇用と労務の最終責任は会社が持った。これは会社と飯場、飯場で働く坑夫が基本的に無関係であった他の炭鉱と異なるところであった。実際には飯場で働く坑夫に対する福利厚生はかなりずさんなものではあったが、それでも他の炭鉱よりは近代的と言える組織で風通しも良かった。 飯場制度のメリットとしては、当時は坑夫のスカウトにとって都合がよかったことが挙げられる。大嶺炭田の炭鉱では、坑夫は主に比較的近い宇部炭田や筑豊炭田の炭鉱で集めていた。坑夫を集めるといっても実際には引き抜きであり、また当時の坑夫は荒くれ者が多く、鉱夫のスカウトは苦労が多かった。坑夫引き抜きの際のトラブルに対処し、更には荒くれ者の坑夫に対処しながら人集めを行うことは炭鉱の一般職員にとって困難であり、その結果として宇部や筑豊に人脈があり、場慣れした飯場の親方に頼ることになった。飯場ごとに人集めを行っていたので、同じ大嶺炭田内の飯場同士で坑夫集めを巡ってトラブルとなることも少なくなかった。飯場同士のトラブルも日常茶飯事で、たとえば当時、娯楽が少なかった大嶺炭田内で数少ない娯楽施設であった大嶺駅前の帝国劇場は某飯場との関わり合いが強く、他の飯場の坑夫たちが劇場に行くことに対して嫌がらせをしたという。 そして山陽無煙炭鉱と大嶺無煙炭鉱の並立時代は、それぞれの会社とつながりがあるやくざ組織が、会社同士の競合と歩調を合わせるかのように抗争を繰り返した。山陽無煙炭鉱と大嶺無煙炭鉱の合併話もやくざ組織の抗争が障害となったというが、警察が取り締まった機会を捉えて合併を決めたとも伝えられている。 山陽無煙炭鉱と大嶺無煙炭鉱の並立時代末期の1930年(昭和5年)の記録では、山陽無煙炭鉱と大嶺無煙炭鉱の合計で坑夫は男634名、女319名という記録が残っている。この頃までは婦女子も坑内で働いていたが、1933年(昭和8年)7月以降、婦女子の坑内労働は禁止された。炭鉱で働く労働者たちが住む炭住には、炭鉱の規模が大きくなってきた大正の頃から、近隣の農家が野菜、果物などを行商しに来るようになった。またやはり大正時代には、仙崎で取れた魚も売りに来たという。そして前述した大嶺駅前にあった帝国劇場で上演される芝居は、他にめぼしい娯楽が無い炭鉱労働者にとって息抜きの場所であり、少々遠い場所からも芝居を観にやって来た。酒を飲みながら芝居を見るうちにけんかとなって、流血の事態へと発展することもあった。 1926年(大正15年)9月には、大嶺無煙炭鉱で労働争議が発生した。新聞報道によれば争議は日本労働総同盟が関与したと見なされており、当初、大嶺無煙炭鉱の坑夫約350名のうち、約半数が参加したという。2割5分の賃上げ、9時間労働を8時間に短縮、そして炭鉱住宅の改築ないし修繕を行う等、8項目の要求を掲げた。争議は坑夫の約3分の2が参加するまで拡大したものの、会社側は1割の賃上げ、8時間半までの時短という回答を出し、それ以上の要求は認めず、ロックアウト、全坑夫の一斉解雇も辞さずとの強硬姿勢で臨んだという。結局争議は大きな混乱を見ることはなく、会社側が提示した条件を坑夫側が受け入れたことによって解決した。 なお山陽無煙炭鉱と大嶺無煙炭鉱の並立時代、両炭鉱に属さない中小炭鉱としては、大嶺炭田北部の萩嶺、美福無煙、荒川地区の榎山、有ノ木、長尾、荒川(三友)、南部の滝口、第三荒川などの炭鉱が稼働していた。
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