山陽無煙炭鉱の全盛期
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深部開発による月産7万トン計画の進行中、1955年(昭和30年)度の年産約44万トンから深部開発工事が完成した1959年(昭和34年)度には66万トンあまりと、産出量は順調に伸びていった。その後も出炭量は拡大を続け、1961年(昭和36年)3月には月産7万トンに到達し、1964年(昭和39年)12月、8万トンの大台に達した。そして1965年(昭和40年)12月、8万3000トンの頂点に達する。1965年(昭和40年)度、年産も86万トンあまりと最高を記録した。当時出炭量は毎月コンスタントに7万トンを超え、また生産性も向上し、山陽無煙炭鉱は全盛期を迎えた。 昭和30年代、全盛期を迎えた山陽無煙炭鉱では、戦前期に引き続き社宅は家賃、修繕費無料、水道、浴場も無料、燃料である薪と石炭はもちろん無料で供給された。電気代は有料であるものの低く抑えられ、畳代には補助が出され、散髪も市価の約7割と手厚い福利厚生がなされていた。当時、山陽無煙炭鉱への入社希望者は多かったものの、合理化によって基本的に人員増を行わない方針であったため、1961年(昭和36年)頃までは募集はあまり行わなれず、条件が極めて良い人物でなければ採用されることはなかった。 豊浦社宅に隣接する商店街は、昭和30年代には82軒の店舗が軒を連ね、全盛期を迎えていた。1957年(昭和32年)頃からはテレビが出回り始め、最初は電器屋に陳列されていたテレビに大勢の人々が群がっていた。しかし高価な商品であり庶民にとってなかなか手が出なかったテレビが、あっという間に社宅全体に広まっていった。電器屋は仕入れた先からテレビが売れていき、うれしい悲鳴をあげていた。当時、テレビ普及率が日本一であると豊浦社宅が報道されたと伝えられている。 山陽無煙炭鉱の全盛期は、文化、スポーツ活動の全盛期でもあった。映画や楽劇団の活動はテレビの普及により衰退していくが、文化系では俳句同好会である「青ぐみ句会」、短歌同好会、川柳同好会、謡曲同好会、盆栽同好会、そして女子コーラス同好会などが活躍をしていた。また囲碁や将棋を楽しむ人々も多かった。俳句同好会の青ぐみ句会は、炭鉱が3交代制の勤務体系を取っており、しかも職場が坑内と坑外と大別される上に地域的にも分かれていたため、句会を開催したところでどうしてもメンバーの3分の1は出席できないため、定例の句会は開催せず、句会報中心の活動にするといった運営上の工夫をして、最盛期には40名を超える会員を集め、ヤマの俳句会として各新聞でも紹介された。なお句会は大明炭鉱にもあって、一時期注目されたこともあった。 スポーツ活動も昭和30年代、全盛期を迎えていた。水泳部、陸上部は部員が国民体育大会を始めとする各種大会で好成績を収め、また軟式テニス部、卓球部、ラグビー部も各大会で活躍した。軟式野球部は昭和20年代後半から30年代にかけては近隣で最強と言われ、やはり各大会で活躍を見せた。そして水泳、軟式テニス、ラグビーなどでは、山陽無煙炭鉱の部員たちが地元の中、高校生に対しても熱心に指導を行った。そして美祢市体育協会の発足について、山陽無煙炭鉱の軟式テニス部の指導者が尽力するなど、全盛期の山陽無煙炭鉱のスポーツ活動は地域のスポーツ振興にも大いに貢献した。 1954年(昭和29年)に復活したボーイスカウト活動は昭和30年代に入っても活発であった。1957年(昭和32年)には社宅に住む主婦たちが主導してガールスカウトが発足する。そして年少者から一貫したスカウト教育を行う必要性が認識されてきたため、子供会とタイアップする形で1965年(昭和40年)にカブスカウトが発足した。そして1957年(昭和32年)、修養団山陽支部が結成され、明るい社会建設をモットーに、各種の講習会、研修会、奉仕活動といった修養団活動を行った。 1957年(昭和32年)から1961年(昭和36年)にかけて、日本各地の炭鉱から炭鉱技術の習得と日独親善を目的として、西ドイツのルール地方のルール炭田に若手鉱員を派遣することになった。山陽無煙炭鉱でも計4名の鉱員が派遣され、派遣鉱員のうち1名が事故で殉職する不幸に見舞われたが、残りの3名は西ドイツで炭鉱技術を習得し帰国した。
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