山陽特殊製鋼の倒産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:25 UTC 版)
1965年(昭和40年)系列会社でもあった山陽特殊製鋼が銑鉄から製鋼までの一貫生産体制の確立を目指し、新規高炉建設を計画。膨大な設備資金500億円は通産省の斡旋で日本興業銀行や神戸銀行から一応、融資の内諾を得るところまで話が進んだが、興銀の中山素平頭取が「富士製鉄が融資の保証をしてくれれば金を出す」と厳しい条件をつけた。500億円という大金は富士鉄とはいえ簡単に保障できる額ではなかった。すると荻野一山陽特殊製鋼社長が何度も永野を訪ねて支援を求めた。しかしよく調べてみると飾磨港は水深が浅く鉄鉱石の大型専用船が横付けできず、かといって小型船では輸送費が高くつくし、富士鉄の工場から原料供給を受ければ、こと足りる話でないかと何べん言っても荻野は聞かず。これは借りた金を運転資金に回して、経営危機を乗り切る算段に違いないと確信した。剛腹で鳴らした荻野が、ぼろぼろ涙をこぼしながら畳に頭をこすりつけ「永野さん、あなたが引き受けたと興銀に一言いっていただければ、万事うまくゆきます。この通りです」と頼んできたが、私的な感情に流されてはいけないと断り、結局山陽特殊製鋼は潰れた。永野の非情な態度は荻野の恨みを買ったが、もし情にほだされて保証をしていたら、富士鉄自体が取り返しのつかない打撃を受けていたといわれる。この後永野が手塩にかけて育てた大内俊司を再建社長として送り込み、その後山陽特殊製鋼は巨額な負債を完済し1980年(昭和55年)再上場した。
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