産業問題研究会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 06:24 UTC 版)
1965年頃の日本経済は、貿易の自由化に伴う国際収支の悪化と、過剰設備投資に起因する需給バランスの崩れにより不況に陥り、山陽特殊製鋼の倒産や山一證券への日銀特別融資の発動などの大事件が連発し、経済界は深刻な危機意識を持っていた。折りしも当時「ミスター通産省」の異名を取っていた佐橋滋通産省企業局長のイニシアティブにより、貿易・資本の自由化に備え、競争力強化のために企業再編を官僚主導で推進することを狙った「特定産業振興臨時措置法案」が国会に提出され、財界に衝撃を与えた。 各経済団体は猛反発して法案成立阻止に動き、結局廃案に終わったが、この経緯から当時の代表幹事・木川田一隆(東京電力社長)らは「石坂泰三流のレッセ・フェール(自由放任主義)では危機を乗り切るには限界があり、政府の介入を防ぐためにも、産業界が自主的に調整を行うべきだ」との思いを強くしていた。木川田と中山素平(日本興業銀行頭取)、岩佐凱実(富士銀行頭取)を中心に民間版産業調整会議の発足に動き、1966年頃から徐々に会合を重ね、「産業経済研究会」(略称「産研」)の名称の下で本格的な活動を行うこととなった。永野、土光敏夫(東芝社長)ら財界の実力者が結集し、マスメディアは「財界参謀本部」などと書きたてた。国際競争に立ち向かうための産業再編成と経済構造の改革について論議され、積極的に社会に提言された。代表的なものとしては、投資の効率的な投入により競争力の向上が期待できるとして八幡製鐵と富士製鐵の合併を支持した「『八幡・富士合併について』の見解採択」(1968年)や、1974年参議院選挙での自由民主党大敗を期に別働隊として立ち上げられた「政治資金と議会政治の近代化委員会」(今里広記委員長)による「自民党への政治資金献金を取り止める絶縁提言」の発表がある。産研は一時期は財界五団体(同友会のほか経団連、日商、日経連、関経連)のトップがメンバーとして顔を揃え、日本の財界をリードする組織として君臨するものと思われたが、皮肉なことに主要団体の協調体制が進む一方で、革新的な提言や行動は次第に影を潜めていった。木川田は1977年に逝去、後継者の河野文彦(三菱重工業会長)も1982年に亡くなり、以後事実上活動は停止した。
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