山陽無煙炭鉱の生産体制の充実
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「大嶺炭田」の記事における「山陽無煙炭鉱の生産体制の充実」の解説
山陽無煙炭鉱では、明治の海軍炭鉱時代に建設された選炭工場を設備を増強しながら使い続けており、5階建ての選炭工場は山陽無煙炭鉱の名物の一つとなっていた。1947年(昭和22年)9月、新たな選炭工場が建設されたことによって海軍炭鉱時代からの選炭工場は廃止となり、やがて解体された。 1949年(昭和24年)4月、中堅鉱員を養成するため、戦前の技能者養成所を引き継ぐ形で補導生教育が開始された。中学校卒業後、山陽無煙炭鉱に入社した鉱員を補導生として、満18歳までの間に炭鉱で働いていくために必要な学科の教育、そして坑内作業の実習が行われた。 練炭需要の拡大に伴い、1953年(昭和28年)以降、山陽無煙炭鉱では深部開発のために設備の増強と、機械化による合理化を本格化させる。深部からの採炭を行うために新たな斜坑の開削、最新鋭の水選選炭機の導入、坑内で採掘された石炭を運搬する設備の増強と合理化、坑内の換気のために新たに扇風機を設けるなど、矢継ぎ早に設備を増強し、石炭の増産体制を整えていった。その結果、1950年(昭和25年)には約28万トンの生産量となって終戦前後の混乱期以前の水準まで回復し、1955年(昭和30年)度には年産44万トンと戦前の記録を塗り替えた。そして1956年(昭和31年)からは月産7万トン計画がスタートすることになる。
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