山陽線網干駅列車衝突事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 22:45 UTC 版)
「日本の鉄道事故 (1949年以前)」の記事における「山陽線網干駅列車衝突事故」の解説
1941年(昭和16年)9月16日 18時8分 山陽本線網干駅構内で、下関発東京行き上り急行8列車(C53形77号機牽引、客車11両編成)が駅場内信号機の停止信号を冒進して駅構内に進入し、停車中の下関発京都行き普通116列車(C57形128号機牽引、客車9両編成)に追突。双方の列車各3両が大破、85名が死亡、71名が負傷した。 急行列車の機関車は快速列車の後部から荷物車を粉砕、次の二等客車の上にのしかかり、のしかかられた二等客車はさらに前の三等客車の車体を左右に広げるように押し入った。このため三両合わせて約60mの長さの客車長が、わずか27-28mほどになった。また、急行の機関車は3両の荷物車、客車を押しつぶした勢いで脱線、ホームに飛び上がり、さらに前方の客車も壊したため負傷者を増やした。 当時は橙信号など中間現示には速度制限がなかったので、橙信号下で減速せず走行したことから次閉塞区間の停止信号で停車できずに事故を招いたとされた。 この事故を機に中間現示制限が試行され、それがダイヤ維持に悪影響のないことも分かり、橙信号下では30km/h制限などの変遷を経て45km/h以下(改良線55km/h以下)に落とす規定となった。 また、塚本駅事故とも合わせて、東海道・山陽・鹿児島線に連続コード速度照査式ATS設置工事を開始したが、受信機が運用直前に爆撃を受けて使えなくなり頓挫、戦後は連合国軍に工事再開を拒否されそのままとなった。
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