鋼製客車製造開始との関連性について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 04:28 UTC 版)
「山陽本線特急列車脱線事故」の記事における「鋼製客車製造開始との関連性について」の解説
本件事故においては木造客車の脆弱性が犠牲者を増加させた原因と指摘されたため、鉄道省は翌1927年(昭和2年)度の車両新造計画から木造客車の枠を抹消し、車体を鋼製としたオハ31形などに切り替えたという言説が広く流布されている。 しかし、鉄道省によれば本件事故と鋼製客車の開発は全くの無関係であり、事故から3年前の1923年(大正12年)頃には乗客の安全確保等を理由に客車鋼製化の構想が持ち上がっており、外国産鋼製車の比較調査を経て、事故の1年以上前の1925年(大正14年)には試験設計計算が済んでいたとされる他、この設計の中心的だった朝倉希一も鋼製化についての話で以下のように述べている。 しかるに世界の大勢は鋼製に変わりつつあり、我が国の電鉄会社でも採用した所もあった(中略)そこで大正13年、私が車両課長となると、鋼製車に経験を有する日本車輛会社や川崎車輛会社の意見を聞いて鋼製車を設計し、大正15年から実施した。(技術随筆 汽車の今昔12「14.車体の問題」より。) また、朝倉はこの後「鋼製客車と木造客車の混結時に起きた事故」という話題を出しているが、本件事故については一切触れていない。
※この「鋼製客車製造開始との関連性について」の解説は、「山陽本線特急列車脱線事故」の解説の一部です。
「鋼製客車製造開始との関連性について」を含む「山陽本線特急列車脱線事故」の記事については、「山陽本線特急列車脱線事故」の概要を参照ください。
- 鋼製客車製造開始との関連性についてのページへのリンク