鋼製兵器の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 09:00 UTC 版)
大河平がルツボ製鋼開発に着手して5年が過ぎた1887年(明治20年)頃になるとルツボ製鋼工場は安定して鋼を生産出来るようになった。この頃から大河平は留学の第二の目的である兵器の開発に本腰を入れるようになる。 1877年(明治10年)にイギリス、アームストロング社から造砲技術を習得して帰国した原田宗助らとともに砲架、機砲、砲身、クルップ式鋼鉄榴弾等をこの時期、拡張整備された海軍兵器製造所内で開発していく。官位も上がり、1886年(明治19年)11月9日に小技監になり、同時に兵器製造所主幹および兵器会議議員をも兼ねた。 この頃、小技監として、後の海軍大将斎藤実に送った試験研究の結果を知らせる書簡が残っている。 そして、1888年(明治21年)にホッチキス砲身、ノルデンフェルト砲身、各種砲架一二拇鋼鉄榴弾等の製造に成功し、さらに軍艦(通報艦)八重山用水雷発射管、スターンチューブ・ブランケット金物等も製造できるようになった。 1891年(明治24年)12月14日、大河平は海軍大技監に任命される。1892年(明治25年)3月23日従五位になる。海軍兵器製造所は1893年(明治26年)になると、海軍の念願であった保式速射砲三十門、並びに小口径砲用鋼鉄弾等の製造に成功する。 続いて1894年(明治27年)には安式十二拇速射砲用鋼鉄榴弾を製造するまでになった。折しも同年には日清戦争が起こり、これらの兵器はすぐに実戦に使われ、好結果を得る。ルツボ製鋼工場も唯一の製鋼工場として大いに発展する。 日清戦争直前の1894年(明治27年)5月18日、肺炎のため30代半ばで死去した。墓所は東京都港区青山霊園内(元海軍区)に設けられた。墓石は大河平の業績の象徴であるルツボを模ったものになっている。
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