鋼製展望車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 09:35 UTC 版)
1927年から国鉄客車の車体は鋼製が標準となった。20m車体を持つ優等車両についてはペンシルバニア式3軸ボギー台車のTR73形が開発され、展望車についても1930年以降にこれを装備した鋼製車が製作されることになる。 まず、1930年に最初の鋼製展望車としてスイテ37000形(のちのスイテ38形→1両はマイテ39 21に改造)が登場し、続いてスイテ37010形(のちのマイテ39形→マイテ39 1、マイテ39 11)が製造され、いずれもオイテ27000に代わって「富士」に充当された。 鋼製展望車1941年改称形式対照一覧当初形式1941年改称後区分室展望室様式屋根スイテ37000 スイテ38 なし 洋式 二重 スイテ37010 スイテ39 なし 桃山式 二重 スイテ37020 スイテ48 あり(前寄り) 洋式 二重 スイテ37030 スイテ47 あり(中央) 洋式 二重 スイテ37040 スイテ49 なし 洋式 丸 スイテ37050 スイテ37 あり(前寄り) 洋式 丸 このうち、スイテ37000形の車内は当時同時期に新築した有名デパートの白木屋の内装デザインに似ていることにちなんで、「白木屋式」と呼ばれた洋風の内装を採用、スイテ37010形の車内は「桃山式」と呼ばれた純和風の内装であった。国際列車であった戦前の特急「富士」にあっては殊に外国人観光客に好評を博したとされるが、戦後復活した際には「まるで霊柩車のようで不気味」、「仏壇じみて縁起が悪い」と乗客の不評を買い、予備車に回された経緯を持っている。 その後、1931年にはスイテ37000形に準じた洋風内装のスイテ37020形(のちのスイテ48形)が超特急「燕」用に製造され、またスイテ37000形のうち1両は「燕」用にスイテ37030形(のちのスイテ47)に改造されている。これらはいずれもダブルルーフであった。 1938年には、1940年に開催予定であった第12回東京オリンピックに備え、近代的な丸屋根構造を採用、車内に換気ダクトを設けるなど冷房装置の取付を当初から想定した(実際に冷房装置を付けたのは戦後)スイテ37040形(のちのマイテ49形)が登場し「富士」に投入されスイテ37000形を置き換えたが、展望車自体の新製はこれが最後となった。この後に登場したスイテ37050形(のちのスイテ37形→マイテ58形)は上述のとおりオイテ27000形の鋼体化改造である(オイテ27000は、台枠などの鋼材がインチ寸法で造られていたため流用が困難で、戦後の鋼体化改造とは異なって、台枠も新製されたとされている。そのため名義のみの改造車とも考えられる)。 なお、鋼製展望車の車内の標準的な構造は一等寝台車とともに使用された「富士」用のスイテ37000形、スイテ37010形、スイテ37040形においては一等寝台車が区分室方式であったため、展望車自体は前位が一等室(談話室)で1人掛回転座席を備え、後位が展望室で1 - 2人用ソファを10席程度配置したものであり、基本的にオープンサロン方式。一等寝台車を連結しない昼行特急の「燕」・「鷗」用のスイテ37020形、スイテ37030形、スイテ37050形は上記に加えて区分室を2室程度備えており、貴賓・高官の乗車に備えられていた。いずれも定員は展望室が10名程度、一等室が16 - 19人程度であった。 太平洋戦争末期には、特急列車の廃止に伴い、展望車を含む優等車両は戦災を避けて地方に疎開措置が取られた。「輸送力増強」との名目で三等車への格下げ改造の計画も立てられたが、時すでにそれを行う余裕すらなく荒廃していった。
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