スイテ37形(スイテ37050形)
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「国鉄オハ35系客車」の記事における「スイテ37形(スイテ37050形)」の解説
特急「鷗」用一等展望車として1939年(昭和14年)に鉄道省大井工場でオイテ27000形の台車などを流用して2両が改造された。 オイテ27000形は木造展望車の掉尾を飾る形式であり、鋼製展望車の第1陣となったスイテ37000形のプロトタイプとなった形式でもあるが、木造ゆえに鋼製展望車の就役開始後は特急運用から外され、1930年(昭和5年)には各等急行第7・8列車の昼行区間である京都 - 下関間に限定運用で連結されていた。 これらの陳腐化が目立ってきたことから鋼製化が計画され、前年のスイテ37040形2両の「富士」への投入によって余剰となったスイテ37000形を第7・8列車に転用し、これに伴い余剰となった同形式2両を鋼製化の上で、新設の特急「鷗」に充当することとなったものであった。 「鷗」が「燕」の増発に相当する通常の昼行特急であったため、内装は洋風の明るいインテリアで統一されており、室内レイアウトは前年に大井工場が手がけたスイテ37040形に準じつつも区分室が設置され、前部展望デッキ側から10名分のソファを配する定員外の展望室、8名分の回転式腰掛と折畳テーブルを有する開放室のほか、政府高官、貴賓用として3名用と6名用の側廊下式区分室が各1室設備され、3位に化粧室および便所、4位に備品室、車掌室が設備された。 当初はオイテ27000時代以来の釣合梁を備える古い設計の3軸ボギー式台車であるTR71を改造したTR76を装着しており、文字通り馬脚を現した格好であったが、これは乗り心地が不評であったことから戦後TR73に交換され、当時現役の他の展望車と同様に、1951年(昭和26年)に乗り心地改善を目的として揺れ枕吊りを245 mm延長してTR73Aに改造された。 これに対し車体は新製されたUF51A台枠上に溶接組み立ての鋼体を組み上げた平滑な車体が実現し、展望室および開放室には1,200 mm幅の、区分室および側廊下には1,000 mm幅の側窓を有するすっきりした印象の外観となった。 戦前には「鷗」の展望車として専ら用いられ、1941年(昭和16年)10月称号改正で木造車の鋼製化車であったことから展望車中最若番となるスイテ37形に改称。その後は「鷗」の廃止まで使用された後、戦時中は休車扱いとして疎開していたが、1はその間に著しく荒廃し、戦後の進駐軍による接収時にKM式冷房装置の搭載を含む大改装が実施されて軍番号2104 STERNBERGとなり、状態が良好であった2も冷房化の上で同様に軍番号2102 BOSTONとして接収された。 返還後は特急「はと」を中心に運用され、1953年(昭和28年)の称号改正でマイテ58形に改称された。 1956年(昭和31年)の東海道本線全線電化時に淡緑5号に塗装変更され、さらに1960年(昭和35年)の三等制廃止時にマロテ58形に改称されて予備車となった後、1962年(昭和37年)に廃車となった。
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