一等寝台車
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9060形スイネフ9060 - 90631915年に大井工場で4両が製造された、20m級一等寝台緩急車。二重屋根を備え、開放室部分の側窓には別途幕板部に明かり取り窓を設ける。台車は明治44年式6輪ボギーである。客室は順に車掌室、便所、側廊下式区分室2つ、中央廊下式のプルマン式寝台を備えた開放室、喫煙室、便所となっており、区分室は座席定員12人・寝台定員8人、開放室は昼間・寝台共に定員12人となる。なお、喫煙室は当初3人掛けの座席を2組、通路を挟んで向かい合わせに設置していたが、1920年に廃車となった9062を除く3両は1923年6月に大井工場で一方の喫煙席3人分を撤去し、そこに給仕室を設置する工事を実施している。 1928年の称号改正で17280形オイネフ17280 - 17282となったが、後に設備はそのままで開放室を格下げしてオイロネフ17280 - 17282へ改称されている。 9065形オイネ90651910年に神戸工場で1両のみ製造された、二重屋根を備える20m級一等寝台車。明治39年式6輪ボギー台車を装着し、台枠構造が以後のものとは異なる。座席定員36人、寝台定員24人のツーリスト式寝台を備え、便所・洗面所等を側廊下式配置として、寝台室との間に喫煙室を置いた、特徴的な客室レイアウトを備える。後に鷹取工場で19965形スニ19965へ改造されたと見られている。 10000形スイネ10000 - 100041911年10月に神戸工場で5両製造された、特別室付きの19m級一等寝台車。1911年度製造分に含まれる25両のブリル社製台枠・台車使用車両の1つ。 1919年に車掌室を設置して10040形スイネフ10040 - 10044に改造され、更に1924年の称号改正ではオイネフ10040 - 10044へ改称された。もっとも、1926年には大形3AB車の増備で代替され、鷹取・大井の両工場で客室設備を全て撤去、側面の2カ所に1,824mm幅の大型両開扉を設置して荷物車の19970形マニ19970 - 19974へ改造されている。1928年の形式称号改正では19600形スニ19606 - 19609・19605に改番されている。なお、この内スニ19609←マニ19973←オイネフ10043←スイネフ10043←スイネ10003は、1931年に職用車の19990形マヤ19991へ改造され、更に1953年の称号改正で救援車の19900形オエ19914となって小倉工場に配置されたことになっているが、実際には小倉工場でマニ19704と振り替えられて三等座席車へ改造の上で1950年に南薩鉄道へ払い下げられ、同社でスハフ100となった可能性が指摘されている 。 10005形スイネ10005 - 100091912年1・2列車用に新橋工場で5両が製造された20m級一等寝台車。前年の10000形とは異なり、台枠がUF41、台車が明治44年式6輪ボギーといずれも制式設計品が採用されている。客室は中央通路の開放室と側廊下式の区分室の組み合わせである。開放室部分は寝台定員12人、座席定員18人のツーリスト式寝台。区分室は4つで、中央部にプルマン式寝台の2人室(座席2)が1つ、そして寝台定員4人の区分室が2つ(座席12)、喫煙室という配置である。 1922年11月にオイネ10005 - 10009と改称している。 10015形スイネ10015・10016 10020形スイネ10020 10025形スイネ10025・10026 10030形スイネ10030・10031 9060形の形式図 9065形の形式図 10005形の形式図 10015形の形式図 10025形の形式図 10030形の形式図
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一等寝台車
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「国鉄28400系客車」の記事における「一等寝台車」の解説
スイネ28100形(スイネ27100形) 1・2列車用一等寝台車として1921年に大井工場で28100 - 28109の10両が製造された。 1925年までに後半の28105 - 28109に車掌室が追加設置されてスイネフ28260形28260 - 28264となったため、1927年の称号改正時には残る5両がスイネ27100 - 27104に改称されている。 スイネ28110(供奉車700号) イギリス皇太子 の来日予定に合わせてスイネ28100形を基本として1920年より設計され、1922年4月の同皇太子来日に合わせて同月17日に10号(展望車)・11号(食堂車)御料車と共に大井工場で完成した供奉車である。 スイネ28100形の基本設計が流用されたためか同形式の区分番号が与えられ、スイネ28110と付番されたが、その車体設計や工作は大形の一枚板を3枚継いだ腰板を用い、深紅色の漆で仕上げた外観と木地塗りの内装など、同時製作の御料車2両に準じるものとされた。 車内は側廊下式を基本とし、順に物置・特別室用便所・特別室・2人室4室・4人室2室・喫煙室・便所と洗面所が配されており、このため側窓配置は寝台側がd12111122111d、廊下側がd11122111111d(d:デッキ)となっていた。 本車は完成後、予定通り4月19日より27日にかけて日光・箱根・京都を訪問した英国皇太子の御乗用列車に10・11号御料車と共に供され、その後もスウェーデン皇太子夫妻の御乗用列車に供されて夜間の行程でその設備を有効に活用されている。 1928年5月17日の車両称号規定の制定と前後して、宮廷列車用の本車は供奉車としての番号が新たに割り振られて700号と改番されたが、1929年には再び一般車としての形式が与えられ、スイネ27100形(旧スイネ28100形)の続番となるスイネ27105と付番された。 もっとも、同年には後継となる20m級鋼製特別室付き一等寝台車が新造されたことなどからその役割を終え、その後もしばらくそのまま予備車として維持されていたものの、結局1932年に大井工場で荷物車への格下げ改造が実施されてマニ29529となった。 その改造に際しては一端の便所と洗面所がそのまま残され、側面に1,800mm幅の両開き荷扱い扉が2カ所設けられたものの、特徴であった大形の1枚板による腰板も極力切断せずに生かされた。 かくして、本車は荷物車でありながら供奉車時代に通ずる優美な姿を保ったまま国鉄木造客車の終焉となる1950年代後半まで品川客車区配置で使用され続け、鋼体化や事業用車への格下げ改造を行われることもなく、1957年4月にそのまま廃車解体となっている。 スイネ28120形(スイネ27150形) 1・2列車用一等寝台車として1923年に大井工場で28120 - 28124の5両が製造された。 政府高官や皇族などの特別客への対応 として一端に専用便所付きの特別室を設け、他に2人室4つと4人室2つを設けるという、スイネ28110と同様の車内配置とされていた。 スイネフ28250形(スイネフ27230形) 1925年に大井工場でスイネフ28250 - 28254の5両が製造された。
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スイネフ28260形(スイネフ27200形) スイネ28100形の後半5両に車掌室を追加設置した一等寝台緩急車である。 1927年に1・2列車の展望車連結区間が東京 - 神戸間に変更された後は同車の前位に連結されるようになり、神戸 - 下関間で同列車の最後尾となった。
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