明治から昭和戦前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/16 23:02 UTC 版)
明治以来の三等級制下においては、最上級位車両。車体表記はイ。戦前には窓下に白色の帯を塗装しており、優等車両の象徴となっていたが、太平洋戦争後に日本に進駐した連合国軍がこの塗装を専用塗装として専有したため、以後はクリーム色が用いられた。 1872年の鉄道開業の際に、客車は3等級とされ、上等・中等・下等に区分したが、1897年(明治30年)11月に一等・二等・三等へ変わった。「下等」の名称が乗客の感情を害するためであったと報じられている。また客車の帯色の塗りわけは1896年関西鉄道が採用、官鉄も1897年に上記と同時に実施した。一等寝台車については、A寝台#等級制時代を参照されたい。 なお称号規定上は一等車が「イ」、一等寝台車が「イネ」と区別されるので、厳密に言えば一等寝台車は狭義の一等車(座席車)とは別カテゴリである。また一等展望車「イテ」は、一等食堂車「イシ」などと同様で、一等車と展望車の合造車を意味し、一等の展望車ではない。一等座席車のうちその多くが、現在でいうロングシート座席であった。 1919年10月1日から、需要減少のためそれまで小区間運転以外おおむね連結されていた一等車が、主要幹線の急行や直行列車の一部にのみ連結されることとなった。1934年には東海道・山陽本線の特急・急行列車に用いられる展望室付車両および一等寝台車以外は廃止され、それ以外の余った一等車は貴賓・要人用の車両として一部が残されたほか、二等車に格下げされたものもあった。ただし、山陽本線のバイパス兼軍事輸送上の重要路線として1935年に全通した呉線は一等車を連結した急行列車が山陽本線から直通することになり、九州島内も関門トンネル開通以降は本州直通列車の一等車として復活する。 1944年4月1日、決戦非常措置要綱に基づき寝台車や食堂車とともに一等車の連結が廃止された。
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