明治から昭和初期の「湘南」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:27 UTC 版)
江戸期に大磯発祥の命名とされる「湘南」は、明治期に政治結社名や合併村名に用いられた。当時、相模川以西地域が湘南。相模川以東地域は湘東または新湘南という認識だった。明治期の「湘南」は、山と川が織りなす景観を持つ相模川以西地域に限られていたと考えられる。 明治維新により、当時西欧で流行していた海水浴保養地が日本にも流入し、適した保養地として葉山、逗子、鎌倉、藤沢、茅ヶ崎、平塚、大磯、二宮など相模湾沿岸が注目されて別荘地となり、湘南文化が芽生える。 1897年、東京の赤坂から逗子に転居した徳冨蘆花が、逗子の自然を『國民新聞』に『湘南歳余』として紹介する。翌1898年の元日から大晦日までの日記を『湘南雑筆』として編纂して、随筆集『自然と人生』(1900年)を出版する。これを端緒に「湘南」は、当初の相模川西岸から、相模湾沿岸一帯を表すように変化する。 太平洋戦争前の1930年(昭和5年)、神奈川県は観光開発振興と大衆文化などをめざして、江の島対岸から大磯まで海岸沿い16.7キロメートルの道路設計に着手。1936年(昭和11年)に完成し、「湘南遊歩道路」などと呼ばれた(「神奈川県道片瀬大磯線」参照)。この名称が湘南という広域地名を普及させるのに大きく寄与した。戦後は三浦半島東部(東京湾側)の横須賀市や三浦市から延びる国道134号西半分の母体となり、国道134号は「湘南のメインストリート」と看做されるようになった。
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