明治から昭和初期にかけての河川事業
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「太田川」の記事における「明治から昭和初期にかけての河川事業」の解説
明治時代以降の太田川の河川開発であるが、明治時代は1898年(明治31年)に太田川を水源に広島市上水道事業が開始され、日本で5都市目の近代水道事業が施工された以外は目立った事業は施工されなかったが、甚大な被害を齎した水害も起きなかった。だが大正時代から昭和時代初頭にかけて1917年(大正8年)・1924年(大正13年)・1928年(昭和3年)・1934年(昭和9年)と太田川が氾濫、洪水を起こし、河川改修の必要性が住民から叫ばれるようになった。 1932年(昭和7年)に内務省は太田川河水改修事業計画を立案。この中で太田川7河川の内西側の山手川・福島川の2河川を利用した太田川放水路開鑿が計画された。 だが、治水事業は折からの戦争激化に伴い予算が縮小され、1944年(昭和19年)には放水路建設は中断された。この間、広島市は1942年(昭和17年)の周防灘台風で1,159戸が高潮で全壊した。1943年(昭和18年)には梅雨前線豪雨(6月)と台風26号(9月)が連続して襲来。特に9月の台風は過去最高の出水を記録し11,545戸が浸水、更に海岸部では高潮により船舶の沈没・流失が16,128隻という甚大な被害を与えた。更に1945年(昭和20年)8月、人類史上最悪の戦争被害・原爆投下があり、翌9月には枕崎台風が襲い広島県内だけで2,012人が死亡する等、相次いで災害・戦災が襲ったことから広島市も壊滅に等しい被害を受けた。 日本では明治に入り発電所が作られ始め、明治20年代(1888-1897)には各地で出力5キロワットから750キロワットの水力発電所がつくられた[信頼性要検証]。広島県における水力発電所は、1899年(明治32年)の黒瀬川の広発電所(750キロワット)が初のものである。なお中国電力管内で稼働中の最古の発電所は1907年(明治40年)に発電を開始した八幡川の河内発電所(200キロワット)である。 太田川水系における水力発電は、1902年(明治35年)に山県郡加計町で支流丁川(よおろがわ)で始まった水力発電(5キロワット)が初めてのもので、次いで1912年(明治45年)7月8日には当時としては大規模な(2,100キロワット)の亀山発電所(昭和48年廃止)が竣工した。1925年(大正14年)には出力24,500キロワットのダム水路式の間野平(まのひら)発電所が竣工し、1935年(昭和10年)には滝山川に王泊ダムが、1939年(昭和14年)には太田川本川に立岩ダム(打梨発電所、23,600kW)が完成した。特に立岩ダムは戦前では7番目に堤高が高いダムであり、太田川水系の電源開発は広島が軍事都市であったこともあり急速に進められた。1944年までに他5ヶ所の水力発電所が建設された[信頼性要検証]。1944年(昭和19年)の総出力は103,500キロワットで現在(平成13年)の純水力発電の40%ほどであった。
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