明治から戦前期
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入植までの歴史については、隣接する福住地区の歴史も参照。 月寒(つきさっぷ)は、1871年(明治4年)に岩手県人44戸144名によって開拓の鍬が現在の月寒中央通から入れられた。1871年(明治4年)に現在の北広島市の一部まで含む行政村として月寒村が置かれると、月寒はその中心集落となった。 1895年(明治28年)には、月寒村の人口増加に伴う治安維持のため、月寒巡査駐在所を現在の月寒中央通9丁目に設置。1900年(明治33年)に月寒村46番地(現在の月寒中央通11丁目)に移転。 1902年(明治35年)に豊平村及び平岸村と合併し豊平村の一部になった。豊平村(1908年(明治41年)から豊平町)の役場は北西寄りの豊平にあったが、この地区が札幌区に編入された1910年(明治43年)に、現在の月寒西1条6丁目(現:月寒児童会館)に移転した。以後の月寒は豊平町の中心地として、室蘭街道(現:国道36号)に沿う形で発展した。また、平岸地区から月寒の役場まで移動ができるように建設された道路は、陸軍兵士があんパンを食べながら工事にあたったことから、現在でも「アンパン道路」と呼ばれている。 1913年(大正2年)に現在の中央区南4条東1丁目と月寒の間に客馬車の運行がされると、1926年(大正15年)に豊平駅と月寒の間にバスが営業を始めた。同年に北海道鉄道が現在のJR千歳線にあたる路線を開通させ、その線上に月寒駅(つきさっぷえき)が開設された。月寒駅は1973年(昭和48年)に月寒駅を含む千歳線の一部が新線に付け替えられた際に旅客取扱を廃止して貨物駅となり、その後駅そのものも1976年(昭和51年)に廃止された。 太平洋戦争(大東亜戦争)中の1944年(昭和19年)には豊平町議会は難読を嫌った陸軍の要請を受けて「つきさっぷ」を「つきさむ」と改めた。しかし千歳線月寒駅については、北海道鉄道を戦時買収した鉄道省とその後身である日本国有鉄道が要請に従わず「つきさっぷえき」のままとした。今日「つきさっぷ」という呼称は、東豊線月寒中央駅前の「つきさっぷ中央公園」、歌の「つきさっぷの少年」、「ツキサップじんぎすかんクラブ」等ごく僅かしか残っていない。 1940年(昭和15年)に、北海道・東北地方を統括する旧陸軍の北部軍司令部が現在の札幌市立月寒中学校の位置(月寒東2条2丁目)に置かれ、1941年(昭和16年)に右写真の北部軍司令官官邸が建てられた。戦後、この建物はGHQに接収された後、1950年(昭和25年)から1983年(昭和58年)まで北海道大学学生寮として使われ、1985年(昭和60年)よりつきさっぷ郷土資料館として市民に開放されている。
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明治から戦前期
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1876年1月:宮古警察出張所が設置される。 1877年10月:出張所が宮古警察署となる。 1887年3月:鍬ケ崎派出所が設置される。 1922年10月:警察署より出火(90戸焼失) 1935年3月:宮古駅前巡査派出所が設置される。
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