地区の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/08 06:05 UTC 版)
バーフェンハウゼンやフクソールの古代出土品は、石器時代の定住を示している。バーフェンハウゼンの最初の文献記録は 1343年である。この地区の象徴的建造物は 1854年に建設され、良く保存された風車であるが、現在は稼働していない。 ベントルフは、1359年のカレンドルプ家のレーエン台帳に初めて記述されている。この集落にも風車があり、こちらは稼働している。この風車は、粉挽きのカール・オージークが 1892年にカレドルフへの街道沿いに建設したものである。 ブローゼンの中世の名称は Brochusen または Brokhusen で、「沼地の村」を意味している。ブローゼンは、おそらく 4世紀から 6世紀の旧ザクセン時代にはすでに入植がなされていた。この村の最初の記録は 1362年、リッペの領主ジーモン3世が自由農民の特権を付与した際のものである。 侯妃パウリーネ・ツーア・リッペ(ドイツ語版)は、ヴェーザー川沿いの村エルダーをリッペ侯領のための大きな内陸港に拡張する計画を1733年に立案した。しかしプロイセンが自らの港があるミンデンとフロートーとの間にいかなる競合相手をも許さなかったため、この計画は実現しなかった。それでもリッペのヴェーザー川の港はリッペ侯国にとって重要であった。エルダーとレムゴーとの間に道路が建設され、ブレーメンから砂糖、コーヒー、米、ニシンなどの物資がリッペに運ばれた。主にレンガ職人からなる多くの出稼ぎ労働者にとっては、ヴェーザー川初の蒸気船ヘルマン号とヴィテキント号はエルダーからブレーメンへ行く快適な交通機関であった。ここからさらに東フリースランド(ドイツ語版)やオランダへの旅も可能であった。1895年/96年にリッペ領内を通る鉄道が完成すると状況は変化し、レンガ職人たちは乗換駅であるラーゲから職場へ往来するようになった。エルダーは、19世紀には、アメリカへの移民の出発地点ともなった。 ハイデルベック地区の存在は、ここにヘルベッカー・アムトを設けたメレンベック修道院による。初めはヘルベッケ騎士家がこのアムトの代官となり、1411年までにヴェストファール騎士家がこのアムトを引き継ぎ、1839年までにハイデルベックの城と荘園の領主がこれを得た。その後この所領はリッペ侯に売却された。1596年に建設されたルネサンス様式の城館ハイデルベック城の内部には、現在居酒屋がある。クール通り沿いに豊かに装飾された木組み建築がある。これは1537年に建設された城館水車である。この建物は長年営林署として用いられた後、現在は森林・営林博物館となっている。 教会の村ホーエンハウゼンの最も古い証拠は、1015年のヴィタ・マインヴェルキにある。この村は元々 Hodanhusen と呼ばれていた。この名称は旧ザクセン時代に遡る。教会の最も古い部分はロマネスク様式で、1100年から1240年の間に建設された。教会の本堂は1410年頃に建造された。1711年にホーエンハウゼンで生まれたシュテファン・ルートヴィヒ・ヤコービは、魚の人工養殖の創始者で、専門家の間では世界的に知られた人物である。現在ホーエンハウゼンはカレタールの町の首邑となっている。 カレドルフ地区内のハイベルクには紀元前700年頃の鉄器時代の墳丘墓があり、現在の町域における初期の入植地である。地区名は、13世紀に現在のカレドルフに広大な所領を有したカレンドルプ領主家に由来する。この騎士家が断絶した後、レーエンはリッペ北部で最も有力な騎士一門であるヴェント家に移された。1359年、カレタールに土地領主によってガラス工場が設立された。1453年にリッペで最初のガラス制作会社が設けられたが、ヴェント家とリッペの土地領主ベルンハルト7世およびジーモン5世との紛争によって破壊された。その後カレドルフには、フロートーとリンテルンとの間を航行するための船曳組織が2組できた。1884年に温泉施設を備えたペンション「カルドルファー・ブルンネン」がオープンした。水は塩泉近くから採られ、1970年までは健康増進のための飲泉としても利用された。 ランゲンホルツハウゼンは、1245年頃に初めて記録されている。中世には Holthusen という名称であり、1323年に購入によりジーモン1世の所領となった。教会内の石造の墓碑が、1534年から1561年までの間に亡くなったヴェント騎士家最後の3人の当主を想起させる。集落全体を壊滅させた1633年頃の悲惨な大火災について伝えている文書がある。侯妃パウリーネ・ツーア・リッペは、1819年にカルベ川の二連アーチ橋を建設させた。この近くにはジーモン6世の紋章石を掲げたエルプパハト水車がある。 リューデンハウゼンは古くは Ludenhausen、ザクセン時代には Luidinghusen という名称であった。ロマネスク様式の石造の塔を持つ木造教会は、おそらく 1200年頃に建設された。教会塔は同時に見張り塔でもあり、分厚い壁と銃眼を有している。教会は戦時の避難所として建設されており、穀種や財産を安全に保管する場所でもあった。集落の中心にある迷子石には、この村が初めて文献に記録された日付である 1339年9月20日が刻まれている。これは、1989年の 650年祭を記念して彫られたものである。 シュテンメンの名前が初めて記された史料の日付は1331年5月14日である。この集落はファーレンホルツの東隣にあり、これら2つの集落は歴史的にも地理的にも互いに密接に結びついている。シュテンメンは中世には Stamf または Stamfried と呼ばれていた。これは最初の入植者の名前に由来する。 山村タレの象徴的建造物は11世紀に造られた初期ロマネスク様式の西塔をもつペトルス教会である。二重の教会堂は1482年から1492年に建造された後期ゴシック様式のホール式教会である。タレという地名はケルト=ゲルマン語で「水」を意味する Tala によると推測されている。近隣のグート・レントルフもこの地区に含まれる。侯女グンドゥラ・ツーア・リッペは生涯のほとんどをここで過ごした。 ファーレンホルツは、周辺の墳丘墓が示す通り、おそらく先史時代には入植がなされていた。名前は Vor der Holze に由来するもので、ヴェーザー川と森に覆われたリッペ山地との間にある入植地であることを示している。ファーレンホルツは、シュテンメンとともにリッペの最も北に位置している。その歴史は事実上、ここに築かれた城塞、後のファーレンホルツ城館によって形成されている。この城塞は1188年に初めて記録されており、フォルンホルテ家の所有であった。1323年にジーモン1世がこの城塞を獲得し、リッペ家の支配地域を北のヴェーザー川にまで広げた。城館の建築史は1540年にまで遡る。1591年から1600年にかけて、リッペ伯ジーモン6世は城館をヴェーザールネサンス建築の最も重要な作例の一つに改築した。1925年3月31日、ファーレンホルツとヴェルトハイムとの間で行われたヴァイマル共和国軍の軍事演習で事故があり、81人の兵士が渡河の途中で溺死した。この事故は現在でも、平時におけるドイツ陸軍最大の事故である。これ以後ヴァイマル共和国軍、およびその後のドイツ国防軍の新兵に水泳の訓練が行われるようになった。 ヴェストルフは中世には Westerndorp または Wessentrup と呼ばれた。これはホーエンハウゼンの西に位置する集落であることを意味している。この村は12世紀にはすでにヘルフォルト修道院の所領台帳に記載されている。主に痩せた土壌からなり、十分な農業収穫を得ることができなかったため、住民は他の収入源を探さなければならなかった。多くの労働者が、おもにレンガ職人として出稼ぎ労働者となった。特に1840年代には出稼ぎ労働者の数が著しく増大した。また、内職も広く浸透した。たとえばレンガ焼きなどである。
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