地区の活動性低下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 02:25 UTC 版)
「稲子 (宮城県)」の記事における「地区の活動性低下」の解説
1980年代後半までは稲子峠の町道には除雪車が入らず、冬は稲子で急病人が出ても峠を越えることが出来ず、そのまま放っておかれることもあった。1988年から国道113号から稲子に通じる町道の除雪が始まった。それまでは町中心部、福島市、高畠町に通じる三方が冬季閉鎖となり、冬の間はスキーや雪上車でないと稲子から出ることも出来なかった。 生活必需品は区長であった大葉の妻が、事前に町役場に購入希望物品のリストを連絡し、町の職員が物品を手配して町保有の雪上車に積んで月に2-3回町から大葉宅前まで運んでいた。父親からこけし作りを継承した大葉富雄は、1996年まで冬の間は郵便配達もしていた。稲子峠が除雪されない頃は、スキーやかんじきを履いて8km離れた湯原地区の郵便局まで毎日4時間かけて往復した。新聞も郵便で配達された。 いつの頃からか、集落には「大般若経100巻」が伝わっており毎年4月20日を「大般若の日」と定めて寺の住職を招いて経を読む習慣があったが、それも1984年を最後に途絶えた。1990年6月、「海と山の交歓会」として本吉町の公民館で福祉講座を受けた卒業生のサークル「明日香」のメンバーら約20人が稲子を訪問した。「明日香」のメンバーは新鮮な魚を地区住民に贈り、稲子の住人は珍しい山菜料理で接待した。稲子の公民館にはそのときの「明日香」からの感謝状が飾られた。1993年までは、七ケ宿公民館は稲子に町内の小学生らで構成する「わんぱく団」を稲子に派遣していた。子供たちは湯原地区から7kmの町道を歩いて稲子を訪れていたが、これらの行事も次々と途絶えた。1996年には仙南保健所による「移動保健所」も廃止された。
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