明治から戦中まで
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明治時代になり武士の世が終わると、一部の武家屋敷は分割されたり借家に転用されたりしたが、多くは住宅としてそのまま継承され、屋敷林も維持されていた。この時代に仙台を訪れたフランス人宣教師のジャン・M・マランは、仙台市街の樹木が多い景観について、その印象を記録に書き留めている。この頃の仙台では、武家屋敷に住んでいた資産家が、その敷地に芝生を張ったり庭石や灯篭を置いたりして庭園をたしなみ、割烹や料亭においても接遇のために庭園が重要視された。また、広瀬川を見下ろす位置に設置された桜ヶ岡公園は、旧武家屋敷からの屋敷林を引き継ぎ、桜や梅などを加えて整備された。街路樹の整備も行われ、1885年(明治18年)に仙台城の大手門から大橋まで、松や杉、桜の並木が造られた。1887年(明治20年)に日本鉄道が仙台まで路線を伸ばし仙台駅が設置されると、駅前通となった南町通に1891年(明治24年)に桜が街路樹として植樹された。 鉄道が仙台まで延びたことで、仙台を紹介する観光案内書が発行されるようになる。1890年(明治23年)刊行の『仙台案内』には市街地の緑が豊かであることが書かれている。1907年(明治40年)に荒川偉三郎が『松島志を李』において、仙台市街地南部の向山から見た仙台の町の様子を「深林の都」と表現し、その2年後、荒川は『仙台松島塩竈遊覧の栞』において「林巒西北に綬り、平野東南に開け、河渠市街を貫流し、樹木各所に繁茂し、常に気は澄み翠は滴りいわゆる都会の紅塵を見ず。故に森の都と称す。」と記し、ここに森の都という言葉が生まれた。 昭和の時代に入ると、仙台市民の意識に「森の都」の浸透が進んだ。仙台市内の尋常小学校で使われた郷土読本において「森の都」が題材になり、教育に用いられた。また、『仙台小唄』や『仙台音頭』の歌詞に「森の都」が含まれ、市民に口ずさまれた。1936年(昭和11年)にコロムビアから発売され、歌詞にやはり「森の都」が含まれた新民謡『ミス仙台』は戦後にも再発売されるヒット作となった。後の1978年(昭和53年)に第20回日本レコード大賞の新人賞を受賞したさとう宗幸の歌謡曲『青葉城恋唄』もヒットし、仙台に「杜の都」のイメージを定着させ、その知名度を全国的に上げる契機となる。 第二次世界大戦の末期の1945年(昭和20年)、アメリカ軍は大規模空襲を予告するため撒いたビラに「仙台よい町 森の町 7月10日は灰の町」と印刷していたという。そして予告どおりの同年7月10日、仙台市街は仙台空襲によって焼き尽くされた。この空襲によって市街地にあった屋敷林も同時に焼失した。
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