明治から戦中までとは? わかりやすく解説

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明治から戦中まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 16:45 UTC 版)

杜の都」の記事における「明治から戦中まで」の解説

明治時代になり武士の世が終わると、一部武家屋敷分割されたり借家転用されたりしたが、多く住宅としてそのまま継承され屋敷林維持されていた。この時代仙台訪れたフランス人宣教師ジャン・M・マランは、仙台市街樹木が多い景観について、その印象記録書き留めている。この頃仙台では、武家屋敷住んでいた資産家が、その敷地芝生張った庭石灯篭置いたりして庭園たしなみ割烹料亭においても接遇のために庭園重要視された。また、広瀬川を見下ろす位置設置され桜ヶ岡公園は、旧武家屋敷からの屋敷林引き継ぎなどを加えて整備された。街路樹整備行われ1885年明治18年)に仙台城大手門から大橋まで、桜の並木造られた。1887年明治20年)に日本鉄道仙台まで路線伸ばし仙台駅設置されると、駅前通となった南町通1891年明治24年)に街路樹として植樹された。 鉄道仙台まで延びたことで、仙台紹介する観光案内書が発行されるうになる1890年明治23年刊行の『仙台案内』には市街地の緑が豊かであることが書かれている1907年明治40年)に荒川三郎が『松島志を』において、仙台市街南部向山から見た仙台町の様子を「深林の都」と表現しその2年後、荒川は『仙台松島塩竈遊覧の栞』において「西北に綬り、平野東南に開け河渠市街貫流し樹木各所繁茂し、常に気は澄み翠は滴りいわゆる都会紅塵見ず故に森の都称す。」と記し、ここに森の都という言葉生まれた昭和時代に入ると、仙台市民の意識に「森の都」の浸透進んだ仙台市内尋常小学校使われ郷土読本において「森の都」が題材になり、教育用いられた。また、仙台小唄』や『仙台音頭』の歌詞に「森の都」が含まれ市民に口ずさまれた。1936年昭和11年)にコロムビアから発売され歌詞にやはり「森の都」が含まれ新民謡ミス仙台』は戦後にも再発売されるヒット作となった。後の1978年昭和53年)に第20回日本レコード大賞新人賞受賞したさとう宗幸歌謡曲青葉城恋唄』もヒットし仙台に「杜の都」のイメージ定着させ、その知名度全国的に上げ契機となる。 第二次世界大戦末期1945年昭和20年)、アメリカ軍大規模空襲予告するため撒いたビラに「仙台よい町 の町 7月10日は灰の町」と印刷していたという。そして予告どおりの同年7月10日仙台市街仙台空襲によって焼き尽くされた。この空襲によって市街地にあった屋敷林同時に焼失した

※この「明治から戦中まで」の解説は、「杜の都」の解説の一部です。
「明治から戦中まで」を含む「杜の都」の記事については、「杜の都」の概要を参照ください。

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