明治から大正期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 03:10 UTC 版)
『埼玉県行政文書』によれば明治初期に20軒ほどの頭師がいたといわれており、その多くはかつての岩槻藩士の関係者だった。また、明治35年(1902年)発行の『埼玉県営業便覧』によれば、岩槻の人形業者は2軒、または3軒のみで、これに対し鴻巣は31軒、越谷は8軒の人形製造業者を有していた。こうした中、腕の良い職人が現れ始めるなど徐々に人形作りが盛んになり、大正4年(1915年)に45軒の業者が岩槻人形製造協同組合を設立。大正6年(1917年)3月に初の雛市を開催したほか、国内の各種物産陳列会への出品を始めると、その技術力が評価されるようになった。 『岩槻市史』では岩槻人形が興隆した理由について「人形作りに適した良質な資源の産地だった」「東京との間で密接な流通関係が築かれ、高級品は東京、大衆向けの並物は岩槻といったように分業が成立。さらに大量生産を行う過程で生産力が拡大した」「大正12年(1923年)の関東大震災により東京の人形職人が岩槻に疎開し、その影響を受けた」点などを挙げている。
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