明治から大正
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日本で最も古い子ども文庫として記録に残るのは、雑誌『少年世界』の作家・編集者であった竹貫佳水(たかぬきかすい)が1906年(明治39年)に千駄ヶ谷に開設した「竹貫少年図書館」とされる。
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明治から大正
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明治初期から中期にかけては、国を挙げて欧化政策が進められたため、西欧精神の中枢であるキリスト教に関心を持つ日本人が増えてきた。福澤諭吉がキリスト教国教会論を主張し、上流階級がキリスト教に殺到した時代である。なお、1895年のカトリック教会は、信徒数50,302人、司教4人、司祭はパリ外国宣教会士88人、マリア会士27人、邦人司祭20人であった。プロテスタントは1888年末に249教会、信徒15,514人、宣教師451人、日本人教役者142人、神学校14校、神学生287人、年間の受洗者は約7,000人を数えた。正教徒の信徒数は17,000人であった。 しかし明治中期以降、日本が富国強兵政策をとって近代国家への歩みを模索し、国粋主義的思想が強まるようになるとキリスト教への見方にも変化が起こる。1889年に発布された「大日本帝国憲法」では日本が立憲君主制国家たることを宣言しているが、この中で信教の自由は限定的なものとされた。さらに天皇に対する忠誠を説く「教育勅語」(1890年)で明治日本における天皇の位置づけが明確に示された。国家の核としての天皇と国家神道の位置づけが明確にされたことで、キリスト教に対する風当たりが強まっていく。このような風潮を象徴するできごとが内村鑑三の不敬事件(1891年)であった。また、政府は大逆事件(1911年)で幸徳秋水を処刑したが、キリスト教に批判的な立場から、彼の遺作である『基督抹殺論』の刊行を認めた。 このような情勢の中でも、この時期、様々なキリスト教的社会福祉事業や社会運動が起こっている。キリスト教精神がようやく日本社会に浸透し、社会への働きかけという形で実を結び始めたことの証ともいえる。
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