明治から現在までとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 明治から現在までの意味・解説 

明治から現在まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 10:18 UTC 版)

播磨屋橋」の記事における「明治から現在まで」の解説

竹林寺の僧・純信恋人である鋳掛屋の娘・お馬為に髪飾り買ったという悲恋物語は「よさこい節」の歌で有名である。 はりまや橋江戸時代から使われていた堀川架かる木製小橋火事焼失後も架け替えられ明治期にも使用されていた。平成10年はりまや橋公園の改修あわせて江戸時代はりまや橋再現イメージ)し公園内設置された。 明治41年10月かんざしの形をした欄干を持つ鋳鉄製の架け替えられた。 大正末から昭和にかけて高知駅から南に延び新道建設1928年土佐電鉄桟橋線延伸開業に伴う高知市街路整備により、はりまや橋周辺開発され目抜き通り一変した。そのため、鋳鉄製のはりまや橋昭和4年撤去撤去後は三翠園に移設平成10年に「はりまや橋公園」の完成合わせて再度移設。三翠園にはレプリカ朱塗りにして設置昭和25年石造り欄干になり、昭和33年南国博覧会記念に歩道車道の間に朱塗り欄干設置された。翌年ペギー葉山が歌う「南国土佐を後にして」および、同名の映画全国的に有名になる平成9年再整備事業により朱塗り欄干撤去石造り欄干設置撤去され朱塗り欄干はりまや橋公園の地下広場移設展示されている。 1960年代に入ると、製紙工場からの排水起因する市街地河川の水質汚濁顕著となり、堀川はほぼ全長わたって埋め立てられた。 1998年朱色欄干から石造りリニューアルし、はりまや橋公園整備する際に歴代播磨屋橋復元されの下には人工水路設置された。 2012年には、播磨屋橋公園ペギー葉山楽曲南国土佐を後にして」の歌碑建てられた。碑は午前8時半から午後8時半まで1時間おきにペギー本人歌声流れ、隣に建てられ親子が潮を吹く仕組みになっている。なお、同碑は全国から集まった1600万円寄付金建立され除幕式にはペギー葉山本人出席した

※この「明治から現在まで」の解説は、「播磨屋橋」の解説の一部です。
「明治から現在まで」を含む「播磨屋橋」の記事については、「播磨屋橋」の概要を参照ください。


明治から現在まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 08:13 UTC 版)

旭川 (岡山県)」の記事における「明治から現在まで」の解説

明治時代入って製鉄による「鉄穴流しが行われ、土砂堆積による河床の上昇がみられていたため、幾度となく航路維持のため浚渫工事が行われていた。利水面では、1905年7月岡山市全国8番目となる水道事業開始され治水面では内務省御雇いオランダ人技師ローウェンホルスト・ムルデル指導により昭和初期桜橋岡山市中区以南ケレップ水制建設された。しかしながら依然として岡山市中心部は度々洪水見舞われ1934年昭和9年9月には室戸台風による大雨によって旭川百間川堤防決壊し死者60人を数えるなど大きな被害受けた。これを受けて百間川増強計画発電用としての湯原ダム旭川ダム建設計画進められたが、第二次世界大戦突入し戦局の悪化とともにこれらの計画中断した戦後中断していたダムの建設着手し1954年昭和29年)に旭川ダムが、翌年には湯原ダム相次いで完成した1972年昭和47年7月豪雨旭川は再び洪水見舞われ旭川ダム再開発湯原ダム洪水調節機能整備による多目的ダム化実施された。 現在は1992年平成4年4月改訂され工事実施基本計画を基に、改修進められている。一方で近年では異常気象による渇水発生し1993年平成5年)には湯原旭川ダム貯水率それぞれ20%50%下回り岡山市では史上初め減圧給水が行われたほか、農林水産業被害額が約142億円に上るなど、深刻な事態となった2004年平成16年)には台風16号による高潮発生し河口付近住居浸水する被害があった。

※この「明治から現在まで」の解説は、「旭川 (岡山県)」の解説の一部です。
「明治から現在まで」を含む「旭川 (岡山県)」の記事については、「旭川 (岡山県)」の概要を参照ください。


明治から現在まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 22:33 UTC 版)

伏見稲荷大社」の記事における「明治から現在まで」の解説

慶応4年(=明治元年1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは再び戦場なりかけたが、幕府軍早々に戦闘行為諦めて大坂退却したため、稲荷社被害はほとんどなかった。しかし、同年神仏分離・廃仏毀釈によって4月4日愛染寺閉門とされ、後に廃絶、翌5日には浄安寺西光寺廃絶境内にあった仏堂仏像本殿内で祀られていた仏像廃された。文化財保存の点では戦禍よりも神仏分離のほうが影響大きかったわけである。ただし、祭礼時の東寺神供だけは現在も残っている。また、明治政府稲荷社から領地をすべて召し上げ境内地4分の1減らされた。 1871年明治4年)には近代社格制度のもとで官幣大社に列格するとともに式社名を「稲荷神社」とし「官幣大社稲荷神社となった文学者坂口安吾は「伏見稲荷俗悪極まる赤い鳥居の一里に余るトンネル忘れることが出来ない見るから醜悪で、てんで美しくはないのだが、人の悲願結びつくとき、まっとうに胸を打つものがあるのである。これは、「無きに如かざる」ものではなく、その在り方卑小俗悪であるにしてもなければならぬ物であった。」と評価している。 戦後1946年昭和21年)に近代社格制度廃止に伴い宗教法人化したが、神社本庁入らず独立した単立宗教法人となった。これは神社本庁伊勢神宮本宗とするのに対し大社側として別の見解取ったためで、神社本庁との関係良好である。宗教法人とともに社名を「伏見稲荷大社」と改称したが、これは近代社格制度廃止に伴いそのままでは社名が単に「稲荷神社」となり、他の多く稲荷神社混同することを避けるためである。

※この「明治から現在まで」の解説は、「伏見稲荷大社」の解説の一部です。
「明治から現在まで」を含む「伏見稲荷大社」の記事については、「伏見稲荷大社」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「明治から現在まで」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「明治から現在まで」の関連用語

明治から現在までのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



明治から現在までのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの播磨屋橋 (改訂履歴)、旭川 (岡山県) (改訂履歴)、伏見稲荷大社 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS