明治から現在まで
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竹林寺の僧・純信が恋人である鋳掛屋の娘・お馬の為に髪飾りを買ったという悲恋物語は「よさこい節」の歌で有名である。 はりまや橋は江戸時代から使われていた堀川に架かる木製の小橋で火事で焼失後も架け替えられ明治期にも使用されていた。平成10年はりまや橋公園の改修にあわせて、江戸時代のはりまや橋を再現(イメージ)し公園内に設置された。 明治41年10月にかんざしの形をした欄干を持つ鋳鉄製の橋に架け替えられた。 大正末から昭和にかけて高知駅から南に延びる新道の建設、1928年の土佐電鉄桟橋線延伸開業に伴う高知市の街路整備により、はりまや橋周辺が開発され、目抜き通りに一変した。そのため、鋳鉄製のはりまや橋は昭和4年に撤去。撤去後は三翠園に移設、平成10年に「はりまや橋公園」の完成に合わせて再度移設。三翠園にはレプリカを朱塗りにして設置。 昭和25年石造りの欄干の橋になり、昭和33年南国博覧会の記念に歩道と車道の間に朱塗りの欄干が設置された。翌年、ペギー葉山が歌う「南国土佐を後にして」および、同名の映画で全国的に有名になる。平成9年に再整備事業により朱塗りの欄干は撤去、石造りの欄干を設置。撤去された朱塗りの欄干ははりまや橋公園の地下広場に移設展示されている。 1960年代に入ると、製紙工場からの排水に起因する市街地河川の水質汚濁が顕著となり、堀川はほぼ全長にわたって埋め立てられた。 1998年に朱色の欄干から石造りの橋にリニューアルし、はりまや橋公園を整備する際に歴代の播磨屋橋が復元され、橋の下には人工水路が設置された。 2012年には、播磨屋橋公園にペギー葉山の楽曲「南国土佐を後にして」の歌碑が建てられた。碑は午前8時半から午後8時半まで1時間おきにペギー本人の歌声が流れ、隣に建てられた鯨の親子が潮を吹く仕組みになっている。なお、同碑は全国から集まった1600万円の寄付金で建立され、除幕式にはペギー葉山本人も出席した。
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明治から現在まで
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「旭川 (岡山県)」の記事における「明治から現在まで」の解説
明治時代に入っても製鉄による「鉄穴流し」が行われ、土砂堆積による河床の上昇がみられていたため、幾度となく航路維持のため浚渫工事が行われていた。利水面では、1905年7月に岡山市で全国8番目となる水道事業が開始され、治水面では内務省御雇いのオランダ人技師ローウェンホルスト・ムルデルの指導により昭和初期に桜橋(岡山市中区)以南にケレップ水制が建設された。しかしながら、依然として岡山市の中心部は度々洪水に見舞われ、1934年(昭和9年)9月には室戸台風による大雨によって旭川・百間川の堤防が決壊し、死者60人を数えるなど大きな被害を受けた。これを受けて百間川の増強計画、発電用としての湯原ダム・旭川ダムの建設計画が進められたが、第二次世界大戦に突入し、戦局の悪化とともにこれらの計画は中断した。戦後、中断していたダムの建設に着手し、1954年(昭和29年)に旭川ダムが、翌年には湯原ダムが相次いで完成した。1972年昭和47年7月豪雨に旭川は再び洪水に見舞われ、旭川ダムの再開発と湯原ダムの洪水調節機能の整備による多目的ダム化が実施された。 現在は1992年(平成4年)4月に改訂された工事実施基本計画を基に、改修が進められている。一方で近年では異常気象による渇水も発生し、1993年(平成5年)には湯原・旭川両ダムの貯水率がそれぞれ20%・50%を下回り、岡山市では史上初めて減圧給水が行われたほか、農林水産業の被害額が約142億円に上るなど、深刻な事態となった。2004年(平成16年)には台風16号による高潮が発生し、河口付近の住居が浸水する被害があった。
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明治から現在まで
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慶応4年(=明治元年、1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは再び戦場となりかけたが、幕府軍は早々に戦闘行為を諦めて大坂に退却したため、稲荷社の被害はほとんどなかった。しかし、同年の神仏分離・廃仏毀釈によって4月4日に愛染寺は閉門とされ、後に廃絶、翌5日には浄安寺と西光寺は廃絶、境内にあった仏堂に仏像、本殿内で祀られていた仏像も廃された。文化財の保存の点では戦禍よりも神仏分離のほうが影響は大きかったわけである。ただし、祭礼時の東寺神供だけは現在も残っている。また、明治政府は稲荷社から領地をすべて召し上げ、境内地も4分の1に減らされた。 1871年(明治4年)には近代社格制度のもとで官幣大社に列格するとともに正式社名を「稲荷神社」とし「官幣大社稲荷神社」となった。 文学者の坂口安吾は「伏見稲荷の俗悪極まる赤い鳥居の一里に余るトンネルを忘れることが出来ない。見るからに醜悪で、てんで美しくはないのだが、人の悲願と結びつくとき、まっとうに胸を打つものがあるのである。これは、「無きに如かざる」ものではなく、その在り方が卑小俗悪であるにしても、なければならぬ物であった。」と評価している。 戦後の1946年(昭和21年)に近代社格制度の廃止に伴い宗教法人化したが、神社本庁に入らずに独立した単立宗教法人となった。これは神社本庁が伊勢神宮を本宗とするのに対し大社側として別の見解を取ったためで、神社本庁との関係は良好である。宗教法人化とともに社名を「伏見稲荷大社」と改称したが、これは近代社格制度の廃止に伴い、そのままでは社名が単に「稲荷神社」となり、他の多くの稲荷神社と混同することを避けるためである。
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