明治から終戦までとは? わかりやすく解説

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明治から終戦まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:37 UTC 版)

穴守稲荷神社」の記事における「明治から終戦まで」の解説

明治から終戦昭和20年)までの穴守稲荷神社羽田地域は、隆盛その後にくる戦渦翻弄された大激動の時代であった明治初年村民某なるもの漁業帰途偶々堤頭に老の数児を擁し遊ぶを見戯れ獲る所の小魚二三投じて去る漁夫即夜夢にの来るを見る曰く先に投ずる所の少数にして数児に分つ足らず望むらくは尚ほ数多を與へよと漁夫破れて之を奇異とし翌日海浜漁業獲る前日に数倍するを以て再び数尾を穴中に投入す是より先き漁夫の妻宿痾苦み数月の間病褥在り加ふるに坐臥自由を欠き殆ど薬餌の施す可きなく再び起つ能はざるの悲境遭遇せり漁夫謂らく昨夢果して正なれば寔に是れ霊狐なりと試みに祈り以て妻の病癒を乞はんと夫より日々漁す所の魚介供して祈願凝らす果せる哉幾許たらすして不起宿痾頓みに快癒し加ふるに営む所の漁業日々夥多収獲ありて家計も又随つて饒かなるに至れ是に於て益信仰の念を起し日夜敬崇参拝を怠らす旦己れ既に受くる所の霊験を談示せに依り里人相伝へて到る所喧伝し衆諸争つて祈願籠むるに又一として霊験あらさるはなし — 穴守稲荷霊狐について明治初期伝承 藤井内蔵太郎編「羽田穴守稲荷由来記」より 明治時代になると、明治政府伊勢の神宮頂点としたいわゆる国家神道体制構築しあらゆる神社をその体制のもとに再編成する取り組み始めた。そして、1872年明治5年8月大蔵省通達により、地蔵堂鎮守社などの社寺届出のないまま建立する事を禁止また、翌年12月教部省通達により、私有地鎮守神仏像祀ったり、周辺住民がそこに参拝する事を禁止すると共に建物処分しなければならなくなった穴守稲荷も当然取締り対象となるものだった。しかし、強制的な取壊しはなかったようで、逆に明治10年頃には近所の人々によって新し社殿建てられている。 1884年明治17年9月15日には、暴風雨により全壊してしまうが、土地古老橋爪英麿や金子市右衛門鈴木寒之助、石川一郎らは、これを復旧し、「衆庶参拝公認)」の立派な神社にしたいと思い立ち、「稲荷神社公称願」を東京府出願して、最初却下されたものの、11月18日再度詳細な嘆願書稲荷神社公稱に付再願」を東京府提出して1885年明治18年11月26日には社殿完成検査条件付公衆参拝独立した一社として許可を得ることができた。 該社鈴木新田草創の社にして本村文政二年同村鈴木三郎一己所有にして開墾落成の際稲荷祠を勧請依て漁村村民豊作大漁を祈ること積年なりしも明治十七九月十五暴風害に罷り旧社大に破壊昨年の秋より不漁打続く故に参拝するもの多く随て信徒増殖仕候に付再建の義を企望する信徒惣代協議の上共有一社建立せんことを奉願候也 — 『稲荷神社公称願』より 9月の「稲荷神社公称願」の主旨は、文政年間より「崇敬罷在候処近来信仰者漸次増殖シ既ニ数百名ノ多キニ至リ参拝ヲ請フ者陸続」としているので、正式に衆庶参拝」が出来るようにするとともに、 「明治十七九月十五暴風ノ害ニ罹リ旧社大ニ破壊」してしまったので、社殿再建して永続をはかりたいというものであった。又、信徒名簿添付されており、この名簿記載されている信徒は、羽田村羽田猟師町鈴木新田中心に大森蒲田雑色八幡塚・糀谷川崎品川等の住民で、752名にも上っており、すでに地域超えた信仰の広がりをもっていた。11月提出された「稲荷神社公稱に付再願」には、「最前出願候趣聞傳へ新に信徒加入の者四百餘名多き至り應分寄附金仕り頻りに再願熱心するに依り誠に以て恐縮得共別紙永續方法並に繪圖面信徒名簿等相副連署を以て再願仕候」と述べられている。こうした急速な崇敬者増加によって、「公衆参拝」が出来神社として認可されることになったものといえる。 翌1886年明治19年11月には、穴守稲荷神社という社号官許され鈴木新田内の広大な土地萱葺社殿再建された。1887年明治20年3月には、東京府知事に「穴守稲荷神社落成検査願」及び「神社落成ニ付遷座式願」を提出し翌月認められている。 再建され穴守稲荷神社境内広くなり、公衆参拝認証があってからは急激に講社結成申し込み盛んになった。明治30年代半ばには東京横浜だけで講社150、講員10万人以上を数えるようになり、講の所在する地域は、東京府下はもちろん、神奈川千葉埼玉茨城静岡などの近隣県、そして福島・新潟・北海道に至るまで、日本各地に講が誕生するほどであり、参詣者で境内殷賑極めたまた、郵送などの方法によって、台湾朝鮮中国西洋諸国に住む日本人が、知人頼んで代拝盛んに行われ大正時代講社名簿には、海外講社として、シアトルの『北米シヤトル講』の名も見受けられる花柳界講社いくつか結成され東京では『東京洲崎廓講』(深川廓講、洲崎遊廓)と『浅草新吉原賛成員講』(新吉原講、吉原遊廓)が結成された。 崇敬についての奉納歌厚(あつ)き御稜威(みいづ)をうち仰(あふ)ぐ、あふぎがうらの御社(みやしろ)へ、 日(ひ)にそへ年(とし)を経(へ)る毎(ごと)に、詣(まう)で来(く)る人(ひと)いや増(ま)して、 いまや都(みやこ)のまちまちは、いふにおよばず皇国こうこく)の、 みなみは台湾たいわん)きたは又(また)、ほく海道かいどう)の果(は)てよりも、 遥々はるばる)きたるのみならず、遠(とほ)くへだたるとつ国(くに)に、 行(ゆ)きて商業(なりはひ)するものも、をりをりかしの玉章(たまづさ)に、 おのがねがひの真心(まこころ)を、かきて送(おく)りてしり人(ひと)に、 ねぎごと頼(たの)む人(ひと)もあり、されば御国(みくに)に寄留きりゅう)する、 外国とつくに)びとのみやしろに、詣(まう)づるものも数(かず)おほし、 実(げ)にやみいづの証(しるし)とて、(あけ)のとりゐの数(かず)しれず、 建列(たてつら)なるぞありがたき、 穴守(あなもり)のみいづは今(いま)や扇浦(あふぎうら) とつ国人(くにひと)も仰(あふ)ぎぬるかな — 詠み人知らず 明治37年刊『穴守稲荷神社縁起』より また、明治20年頃に木村荘平23人ほどで「イロハ講」をつくり、神社入り口に講の名を刻んだ真っ赤な鳥居奉納したことから、神社朱鳥居を寄進することが盛んになり、石造木造銅製など、遂にはその数46796基にも上り関東地方一名物と謳われ、「雨の日にその鳥居の下に入れば濡れぬ」とまで言われるほどの隆盛ぶりだった。現在、千本鳥居著名な伏見稲荷大社稲荷山全体にある鳥居の数が約1万と言われているので、それをはるかに上回る鳥居存在していた。なお、「イロハ講」は穴守稲荷最初講社となり、後に「東京元講」と改称し3年ほどで東京市芝区講元中心に麻布区京橋区などの住民数千人の講員を擁する有力講社となったまた、鳥居以外にも華表燈篭像、旗幟などが寄進され林立していた。 この頃には、川崎大師張り合うほどの有名神社となり、正月三が日参詣は、穴守稲荷川崎大師両社寺を掛け持ちで巡る人が多く早舟渡し舟使って動いていたという。また、2月初午10月17日例祭賑わい日本でも著名なお祭りとして名を馳せるようになった。 穴守の稲荷と、川崎大師六郷川多摩川下流河口左岸右岸相対して、その繁盛ぶりを競うところの流行神流行佛である — 相川二郎著『趣味旅 名物をたづねて』より抜粋 1894年明治27年)、鈴木新田一部所有していた和泉茂八が早魃に備え、良求めて井戸掘ってみたところ海水よりも濃い塩水湧出した。これを東京衛生試験所成分鑑定出願したところ、湿疹貧血胃腸カタルなどの諸病に効くナトリウム冷鉱泉認められた。そこで茂八は泉館という温泉旅館起こしたその後付近あちこち鉱泉掘られ、要館・羽田館・西本館などの旅館神社傍ら開業したまた、それ以前より営業していた料理店風呂設け、後には百余軒もの社前店が並ぶほどに発展した。この温泉宿割烹旅館出現は、神社一帯東京花柳界などの保養地となり、神社参拝兼ねた東京近郊一大観光地として、一層の注目を集めるきっかけとなった鳥居前町の繫昌についての奉納歌鎮(しづ)りませるくしみたま、奇(くし)きみいづの祐(たす)けにや、 ななとせ八年前(やとせまへ)のころ、良(よきみづ)得(え)むとゆくりなく、 一(ひとつ)の井戸(ゐど)を掘(ほ)りければ、礦泉(くわうせん)たちまち湧出(わきい)でて、 たほく病者(びゃうしゃ)を癒(いや)しけり、さればその後(のち)たれ彼(かれ)も、 之(これ)に倣(なら)ひて井(ゐ)を掘(ほ)りて、たか(どの)建(た)てて客(きゃく)を待(ま)つ、 社前しゃぜん)につらなる種々くさくさ)の、店(みせ)もひとしく客(きゃく)を呼(よ)ぶ、 よりて益々(ますます)たよりよく、名(な)には背(そむ)かぬいな妻(づま)の、 くるまも疾(はや)く通(かよ)ふなり、嗚呼(ああ)ありがたき穴守(あなもり)の、 神(かみ)の御稜威(みいづ)をかかぶるは、いく千万(ちよろづ)のひとならむ、 かくいやちこの神御霊(かむみたま)、かなめの島(しま)のあふぎ浦(うら)、 みすゑ広(ひろ)くぞ栄(さか)ゆべき、 みやしろの為(ため)に凡(すべ)ての営業(なりはひ)を いとなむ人(ひと)やいかに思(おも)ふらむ — 詠み人知らず 明治37年刊『穴守稲荷神社縁起』より 2年後1896年明治29年7月には、鈴木新田に住む廣井兼吉が 「御神水設立趣意」の届出神社提出しており、この鉱泉霊水であり、鉱泉発見そのもの穴守稲荷霊験であると述べられている。のちの講社名簿には、その御神水元講をはじめ、東京市内の神田区赤坂区麹町区麻布区芝区北多摩郡立川村南多摩郡八王子町千葉県東葛飾郡野田町埼玉県北足立郡膝折村などに「御神水講」の講社名をみることができ、鉱泉発見穴守稲荷新たな霊水信仰もたらし講社発展にも寄与した1897年明治30年1月、要館などの社前店や京浜講社出資により、社殿の裏手に高さ33尺(約11メートル)の稲荷山御山)が完成した一説には築造費用は、穴守稲荷神社講社が5297.3円、木花元講(羽田にあった富士講講社)4672円の折半よるものとされ、富士講資本入っている事から、たびたび富士塚誤認されているが、穴守稲荷由来記(明治34年刊)、穴守稲荷縁起明治34年刊)、穴守稲荷神社縁起 全(明治36年刊)などの広く出回った資料見ても、すべて「稲荷山」と説明されている事からも、一部出資者富士塚喧伝していたものの、世間では稲荷山として認識されていたといえるまた、1904年明治37年11月には、稲荷山の高さは60尺(約18メートルであったとの記述もあるが、写真資料や他の記録無く、その存在はっきりしていない。 1899年(明治32年)には、歌舞伎穴守稲荷霊験記』が浅草宮戸座初演皮切りに横浜などの繁華街でも上演されるようになった1901年明治34年)には、春秋大祭時の参詣者が多く女性参詣ままならないほど境内混雑するようになったことを受けて境内東南隣接地4900坪を買収し新たに神苑開設している。同年には、中央新聞社主催した東日本避暑地畿内以東十六名勝」のコンクールで「府下羽田穴守境内」が、「常州大津 八勝園」「横須賀 開陽軒」「東京芝浦 芝濱館」などを抑えて最高点335934票を獲得したまた、避暑地投票後には、全国神仏教派信者数募集が行われ、「三千四百十二 東京羽田 穴守稲荷信者」と、1位ではなかったが上位入っている。 そして、この繁栄ぶりを見逃さなかったのが、京浜電気鉄道現在の京浜急行電鉄であった鉄道走らせることにより、徒歩人力車乗るかしかなかった参拝者の便を図ることを目的として、穴守への鉄道開業向けて動き出した当時は、まず川崎大師への参拝済ませると、多摩川はさんで対岸にあった穴守稲荷神社への参拝兼ねて遊びに行くという人が多かったその人々は多摩川渡し船渡り穴守稲荷神社へと向かっていた。そこで、海老取川の岸から南側曲がり多摩川突き当たった所で土手沿いに西へ進み、今の大師橋その手前に羽田渡しがあった)を越え、現在大師橋緑地になっている所にあり、川崎大師最も近い渡し場であった中村の「新渡し」から渡し船利用して大師線に結ぶという構想たてられた。 その後当時京浜電鉄の駅で最も穴守稲荷神社に近い京浜蒲田から延伸することになり、1902年明治35年6月28日には、日本初の「神社の」参詣輸送為の電気鉄道」である穴守線現・空港線)が開通し海老取川の手前に穴守駅開業した品川駅への延伸より先に穴守線開通したのは、川崎大師への参詣客輸送大成功大きく影響し、「川崎大師詣でるなら、穴守稲荷へも寄らなければ片参り」といった宣伝行われたという。また、海老取川手前までの開通になったのは、神社周辺が既に住宅密集であったことと、海老取川かっていた稲荷から穴守稲荷神社までの続く道中商店主や人力車稼業人々が、商売にならなくなると反対した為といわれている。とはいえ、この鉄道の開通は、羽田の地が東京横浜市民日常的な参拝兼行楽地になる事に繋がり鳥居前町の一層の繫栄に寄与した品川より電車にのりて大森蒲田経て羽田に至る。をわたれば両側数町の間、物うる家、立ちつづき赤き鳥居密接してトンネルを成す。そのきはまる小祠あり。穴守稲荷とて、近年にはかに名高くなり、その参詣者の多きことは、ここに電車通じたるにても知らるべく、鳥居トンネルにても知らるべく、鉱泉宿、料理屋商店など僅々十年の間、洲渚市街現出したるにても知らるべし。(中略十年前稲荷接近せる鉱泉宿の要館に数日逗留して著述従事したこともありしが、その時二三鉱泉宿が出来て居り、祠前に十数出来て居りのみなるに、十年の後には、かくまで市街出来るものかと、茫然として、しばし祠前に彳立す — 大町桂月著『東京遊行記』より抜粋 10年前1890年代)は、鉱泉発見され鳥居前町発展始まりつつあった頃だが、それからの10年間で急激にしたことがうかがえ、そしてその動き可能にし、加速させたのが、穴守線開通であったこの頃京浜電鉄大鳥居駅から穴守稲荷神社辺りは、一面畑が広がり神社鳥居は4丁余り(約400メートル)にわたってトンネル状連なっていた。この左右に掛茶屋割烹土産物屋軒を並べ新鮮な魚介料理提供する一方海藻果実貝細工張子達磨河豚提灯煎餅葛餅、そして供物として土製白狐や小餅などを販売していた。当時穴守駅下車して稲荷渡り社前町を眺めながら、連なる鳥居トンネルをくぐり、穴守稲荷神社参拝するのが、関東屈指の流行であったという。私鉄小林一三も、京浜電鉄発案した大師線穴守線周遊するプラン実際に体験し、感心をしたという。 さらには当初穴守稲荷神社への参詣輸送主眼としていた京浜電鉄は、文芸評論家押川春浪押川友人文芸評論家ながら京浜電鉄勤めていた中沢臨川働きかけにより、1909年明治42年)に遊園地兼ね備えた羽田運動場野球場)を神社裏手江戸見崎設置したことを嚆矢として、羽田地域の独自の観光開発乗り出した1910年明治43年3月には、穴守線複線化が行われ、1911年明治44年7月11日には、京浜電鉄羽田穴守海水浴場開設し報知新聞社提携し同社主催で、元内閣総理大臣大隈重信伯爵渋沢栄一樺太探検有名な白瀬矗中尉などを来賓迎え開場式を挙行した。宣伝効果もあって、会場直後同年7月16日には、1日1万人を越え入場者が来場したと新聞記録残されている。その後羽田穴守海水浴場には、毎年5万人の入場者が来場し、後には海の家浄化海水プール新設されている。これらの施設は、当時海水浴場としては群を抜いたものであり、海上休憩場のほか陸上にも休憩2棟収容人数1万人、特別休憩室64室、3500分の更衣室東洋一謳われた海水プール、海の遊泳場には飛込台ボートもあり、総タイル張りシャワー設備等設けた温浴場滑り台シーソー等を設置した陸上遊戯場余興場、各種売店等、あらゆる施設備えた一大娯楽施設だった。 また同年11月18日から11月19日には、1912年ストックホルムオリンピック日本初参加することになったことで、予選会都心から近くて交通の便がよい羽田運動場開催することになり、野球場を1周約400メートル運動場転換して国際オリムピック大会選手予選会開催された。その際には、穴守稲荷神社境内会場として使用されている。 1913年大正2年12月31日には、穴守線海老取川渡って神社前までの延伸果たし新穴守駅が開業した夏季には観光客輸送のため本線直通する急行列車運転されるようになり、一層の賑わい見せようになった穴守稲荷神社一帯一大行楽地化してゆく中、1917年大正6年1月4日には、穴守稲荷神社近く玉井清太郎相羽有らによって「日本飛行学校」と「日本飛行機製作所」が創立された。日本飛行学校飛行場格納庫はここではなく多摩川対岸川崎市広がる干潟建設されたが、この羽田の場所を飛行場適地見出した先人居たことが、後の東京飛行場建設繋がり今日大空港東京国際空港の礎となった六郷川の海にそそぐ両岸浅瀬砂浜は、干潮時には一面干潟になる。平坦であり、軽い飛行機滑走には好適であった。 — 相羽有 1929年昭和4年)には、昭和御大典機に村社昇格し名実ともに鈴木新田地域鎮守となった同年10月には、京浜電鉄重役から一の大鳥居として朱鳥居(後の羽田空港残され大鳥居)が、穴守駅前に奉納されている。 そして、逓信省航空局神社北側土地現在の整備場地区付近)を飛嶋文吉飛島組)から買収して新し飛行場の建設着手し1931年昭和6年8月25日それまで立川にあった東京飛行場移転開港した。これ以来羽田の街は今日に至るまで空港城下町として発展してゆく事になり、航空業界穴守稲荷神社への崇敬ここから始まっている。 1932年には、羽田競馬場近隣羽田入船耕地(現東糀谷付近)から、鈴木新田の東にある御台場羽田御台場鈴木御台場猟師町御台場)へ移転してくることになった予定地である御台場多摩川河口にできた広大な干潟で、天保年間には江戸幕府砲台をつくろうとして中止したところでもあった。現在の東京国際空港第3ターミナルあたりがその場所である。ただ、同地土地台帳上こそ畑地とされていたものの、満潮時にはほとんどが水没してしまう湿地帯だった。そのため、主催者側東京湾埋立株式会社施工発注同地埋め立て盛り土をして競馬場建設するという当時としては一大プロジェクト敢行した。完成した競馬場総面積は、10万坪(約333平方メートル)・1周1600m・幅員30mと、現在の大井競馬場外回りコース(1周1600m、幅員25m)と同規模であった。新競馬場での最初の開催7月3日から5日にかけて行われ554229円の売上記録している。さらに、1934年昭和9年7月開催売上初め100万円の大台突破その後地方競馬では全国一の盛況続き羽田の地に新たな名所誕生することになったまた、1932年10月1日には、鎮座地である荏原郡羽田町東京市編入され新設され蒲田区一部となったあわせて鈴木新田羽田穴守町・羽田鈴木町羽田江戸見町羽田御台場鈴木御台場改称分割穴守稲荷神社所在地も「荏原郡羽田町大字鈴木新田」から、「東京市蒲田区羽田穴守町」に変更され名実ともに東京の街を代表する稲荷神社となった京浜電鉄1934年昭和9年)に出した沿線案内では、穴守稲荷を「関西伏見並び称せらるゝ関東第一稲荷社」と大々的宣伝されている。 このように穴守稲荷神社周辺中心とした羽田地域一帯は、神社への参拝鳥居前町での観光ばかりでなく、競馬羽田運動場でのスポーツオートレース自転車競争海辺で春の潮干狩り、夏の潮浴み、秋のハゼ釣り、そして東京飛行場利用者と、多くの人で賑わっていたという。また、近くには個人経営ゴルフ場御料黒田侯爵家の鴨場などもあり、典型的呼べる以上の第一級鳥居前町であると共に東京・横浜間一大観光地保養地総合リゾート地)の様相呈していた。 花柳社會は勿論、縁起商賣諸藝人抔が擧って信仰するのは穴守稻荷である、流行神番附調製へたら大關位置得られるだらう — 近藤新小説』「穴守稲荷」より抜粋 稲荷多き古来東京一名物なるが、ここの稲荷は最も繫昌す — 大町桂月著『東京遊行記』より抜粋穴守稲荷羽田村鈴木新田の潮除守護神として、江戸時代から祀られていた稲荷小祠が、明治18年(1885)、公許得て穴守稲荷称し商人花柳界信仰集めた35年(1902)には、京浜電車参詣用の支線敷設赤鳥居や茶店門前並び盛況きわめた。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』「穴守稲荷」より抜粋 羽田 川崎 羽田猟師町六郷河口一つ漁村だが、穴守稲荷があるので、京浜も人がよく遊び出かける穴守稲荷も繫昌するが、以前はその近く羽田グラウンド出来てベースボール競技場となつたので、学生諸君にもおなじみの多い土地であつた。 — 河井醉茗著『東京近郊めぐり』より抜粋 羽田といえば、昔は漁師町辨天とできこえたものだが、今では穴守ばかりが人口に膾炙してゐる。そしてこの穴守稲荷が賑はふやうになつたのは、まだつい二十年前で、(中略東京近郊屈指の流行神になつたといふことは、不思議な現象である。つまり、花柳界方面信仰を先づ最初に得たといふことが、かう繁盛していつた第一理由である。 — 田山花袋東京近郊一日の行楽』より抜粋 よくよく考えて見るとそれは御三の顔である。ついでだから御三の顔をちょっと紹介するが、それはそれでふくれたのであるこの間さる人が穴守稲荷から河豚提灯をみやげに持って来てくれたが、丁度あの河豚提灯のようにふくれている。 — 夏目漱石吾輩は猫である9章より抜粋 府下で有名の稲荷一々数うるに暇あらず。(中略近来羽田穴守稲荷大い繁昌するという。 — 岡本綺堂風俗江戸東京物語』より抜粋 蒲田區羽田穴守町。京濱電車穴守終點下車品川から直通電車運轉、所要五分、賃片道二四銭。蒲田から七分一一銭。豊宇氣比賣命を祀る稲荷神社があり、穴守神社とも云ふ。四時参詣多く、午の日には殊に賑はふ。祠を去る五十許り海濱風光よく、海は遠浅潮干狩及び海水浴適し附近東京飛行場がある。また穴守神社後の近くには東京附近に珍らしい群棲がある。 — 「旅程費用概算」(ジャパン・ツーリスト・ビューロー)より抜粋 神社一帯風景についての奉納歌いく千代(ちよ)までも末広(すゑひろ)く、あふぎが浦(うら)に宮(みや)ばしら、 太敷(ひとし)たててうしはける、ところはながめ良(よ)き処(ところ)、 きよき羽田(はねだ)のたま川(がは)は、前(まへ)に流(なが)れてわかれては、 海老取川(えびとりがは)と名(な)にしたふ、きたは品川(しながは)わんにして、 (くし)の歯(は)よりもなほ繫(しげ)き、とうきやう市街(しがい)唯一目(ただひとめ)、 ひがしは海原うなばら)いや広(ひろ)く、幽(かす)かに見(み)ゆる山(やま)やまは、 房総諸山(ばうそうしょさん)と知(し)られたり、西(にし)は富士(ふじ)の嶺(ね)いや高(たか)く、 実(げ)に白扇はくせん)のさまに似(に)て、はねだの川(かは)に映(うつ)るなり、 夕日(ゆふひ)を逐(おう)て帆(ほ)を揚(あ)げて、帰(かへ)るやあまのいさり舩(ぶね)、 なみのまにまに友千鳥ともちどり)、よびかふ声(こへ)も長閑(のどけ)しや、 これぞ此地(このち)の詠(なが)めなる、 かくばかり詠(なが)めよろしき扇浦(あふぎうら) 神(かみ)も嬉(うれ)しと見(み)そなはすらむ — 詠み人知らず 明治37年刊『穴守稲荷神社縁起』より 東京代表する観光地として繫栄を謳歌していた穴守稲荷神社羽田地域であるが、当時日本大日本帝国)が1931年昭和6年)の満州事変機に戦争への道を歩んでゆくことで、その荒波翻弄されることになる。 まず、日中戦争の勃発に伴い立法され軍馬資源保護法施行によって、羽田競馬場1937年昭和12年限りで休催、翌1938年昭和13年)に廃場へと追い込まれた。跡地には日本特殊鋼羽田工場ができ、海岸線寄り跡地には高射砲陣地置かれた。日本特殊鋼のほか、荏原製作所明電舎大谷重工等の大手企業1935年あたりから次々進出してきて、下請け工場出来た競馬場廃場の同年には、満洲国建国以降満洲旅客貨物輸送増大したこともあり、東京飛行場拡張用地として羽田運動場買収され消滅した1939年昭和14年6月には、国民精神総動員運動の中で、料亭等の営業時間短縮され9月1日興亜奉公日設けられると、以後毎月一日は酒が不売となり、次第入手も困難となった参拝者行楽客も激減し料亭工員相手食堂になり、鉱泉宿は社員寮へ姿を変えてゆく等、穴守稲荷神社周辺娯楽施設急速な衰退迎え一帯工場立ち並ぶ軍需産業地帯として工場に働く労働者のための街に変貌していった。1941年昭和16年10月1日には、茨城県霞ヶ浦より海軍航空隊一部飛行機20機・士官70人・兵員1250人の東京分遣隊として東京飛行場移され大手企業工場全て軍需品を作らされるようになる。穴守の町には軍人闊歩するようになり、穴守線軍需産業で働く人の通勤路線となった1942年昭和17年)には更に戦争影響表れるようになり、最後まで残っていた羽田穴守海水浴場営業中止になった1944年昭和19年秋頃を境に、サイパンから出撃した米軍機による空襲激しさ増した穴守稲荷神社近辺間引き疎開ということになり、一時はそこに暮らす人はせいぜい20人に満たないほどになったという。 1945年昭和20年)に入ると、日本敗色次第濃厚になり、東京もたびたびの空襲曝されるようになった穴守稲荷神社境内にも、公設防空壕掘られ近隣避難者供された。しかし、境内はもともとが低湿地であり、地面掘ればすぐ水が出る状態で、浅く掘った防空壕しかできなかったという。神社自身防空壕は、関東大震災瓦礫利用し大きな御影石陰につくって神社人間空襲避けようとしていた。 同年4月3日から4日には、社前にも爆弾落とされ当時宮司金子主計巻き込まれ死亡してしまった。その空襲では何とか焼失を免れた客殿社務所も、羽田全域3分の2羽田糀谷大部分焼け野原にした4月15日城南京浜大空襲被災した神社米軍にとって鈴木新田地域格好標的だったらしく、爆弾の跡だけでも二十幾つもあったほどである。7月には、ご神体本殿地下埋めてお守りすることになった結局神社被害甚大であり、宝物神輿失われ多く貴重な記録灰塵帰したまた、神職崇敬者多く戦地に赴き、戦争のために大きな犠牲強いられる結果となった

※この「明治から終戦まで」の解説は、「穴守稲荷神社」の解説の一部です。
「明治から終戦まで」を含む「穴守稲荷神社」の記事については、「穴守稲荷神社」の概要を参照ください。

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