明治から終戦まで
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明治から終戦(昭和20年)までの穴守稲荷神社と羽田地域は、隆盛とその後にくる戦渦に翻弄された大激動の時代であった。 明治の初年村民某なるもの漁業の帰途偶々堤頭に老狐の数児を擁し遊ぶを見戯れに獲る所の小魚二三を投じて去る漁夫即夜夢に老狐の来るを見る曰く汝先に投ずる所の魚少数にして数児に分つに足らず望むらくは尚ほ数多を與へよと漁夫夢破れて之を奇異とし翌日又海浜に漁業す獲る所前日に数倍するを以て再び数尾を穴中に投入す是より先き漁夫の妻宿痾に苦み数月の間病褥に在り加ふるに坐臥自由を欠き殆ど薬餌の施す可きなく再び起つ能はざるの悲境に遭遇せり漁夫謂らく昨夢果して正なれば寔に是れ霊狐なりと試みに祈りて以て妻の病癒を乞はんと夫より日々漁す所の魚介を供して祈願を凝らす果せる哉日幾許たらすして不起の宿痾頓みに快癒し加ふるに営む所の漁業日々夥多の収獲ありて家計も又随つて饒かなるに至れり 是に於て益信仰の念を起し日夜敬崇参拝を怠らす旦己れ既に受くる所の霊験を談示せるに依り里人耳相伝へて村郷到る所に喧伝し衆諸争つて祈願を籠むるに又一として霊験あらさるはなし — 穴守稲荷の霊狐について明治初期の伝承 藤井内蔵太郎編「羽田穴守稲荷由来記」より 明治時代になると、明治政府は伊勢の神宮を頂点としたいわゆる国家神道体制を構築し、あらゆる神社をその体制のもとに再編成する取り組みを始めた。そして、1872年(明治5年)8月、大蔵省通達により、地蔵堂や鎮守社などの社寺を届出のないまま建立する事を禁止。また、翌年12月、教部省通達により、私有地に鎮守神や仏像を祀ったり、周辺住民がそこに参拝する事を禁止すると共に、建物を処分しなければならなくなった。穴守稲荷も当然取締りの対象となるものだった。しかし、強制的な取壊しはなかったようで、逆に明治10年頃には近所の人々によって新しい社殿が建てられている。 1884年(明治17年)9月15日には、暴風雨により全壊してしまうが、土地の古老橋爪英麿や金子市右衛門、鈴木寒之助、石川又一郎らは、これを復旧し、「衆庶参拝(公認)」の立派な神社にしたいと思い立ち、「稲荷神社公称願」を東京府に出願して、最初は却下されたものの、11月18日再度詳細な嘆願書「稲荷神社公稱に付再願」を東京府に提出して、1885年(明治18年)11月26日には社殿完成後検査の条件付で公衆参拝の独立した一社として許可を得ることができた。 該社は鈴木新田の草創の社にして本村は文政二年同村鈴木常三郎一己所有にして開墾す落成の際稲荷祠を勧請す依て農漁村の村民等豊作大漁を祈ること積年なりしも明治十七年九月十五日暴風の害に罷り旧社大に破壊す昨年の秋より不漁打続くか故に参拝するもの多く随て信徒も増殖仕候に付再建の義を企望する信徒惣代等協議の上共有の一社を建立せんことを奉願候也 — 『稲荷神社公称願』より 9月の「稲荷神社公称願」の主旨は、文政年間より「崇敬罷在候処近来信仰者漸次増殖シ既ニ数百名ノ多キニ至リ参拝ヲ請フ者陸続」としているので、正式に「衆庶参拝」が出来るようにするとともに、 「明治十七年九月十五日暴風ノ害ニ罹リ旧社大ニ破壊」してしまったので、社殿を再建して永続をはかりたいというものであった。又、信徒名簿が添付されており、この名簿に記載されている信徒は、羽田村・羽田猟師町・鈴木新田を中心に、大森・蒲田・雑色・八幡塚・糀谷・川崎・品川等の住民で、752名にも上っており、すでに地域を超えた信仰の広がりをもっていた。11月に提出された「稲荷神社公稱に付再願」には、「最前出願候趣聞傳へ新に信徒加入の者四百餘名の多きに至り各應分の寄附金等仕り頻りに再願熱心するに依り誠に以て奉恐縮得共別紙永續方法並に繪圖面信徒名簿等相副連署を以て再願仕候」と述べられている。こうした急速な崇敬者の増加によって、「公衆参拝」が出来る神社として認可されることになったものといえる。 翌1886年(明治19年)11月には、穴守稲荷神社という社号が官許され、鈴木新田内の広大な土地に萱葺の社殿が再建された。1887年(明治20年)3月には、東京府知事に「穴守稲荷神社落成検査願」及び「神社落成ニ付遷座式願」を提出し、翌月認められている。 再建された穴守稲荷神社は境内も広くなり、公衆参拝の認証があってからは急激に講社結成の申し込みが盛んになった。明治30年代半ばには東京、横浜だけで講社数150、講員10万人以上を数えるようになり、講の所在する地域は、東京府下はもちろん、神奈川・千葉・埼玉・茨城・静岡などの近隣県、そして福島・新潟・北海道に至るまで、日本各地に講が誕生するほどであり、参詣者で境内は殷賑を極めた。また、郵送などの方法によって、台湾や朝鮮、中国、西洋諸国に住む日本人が、知人に頼んでの代拝も盛んに行われ、大正時代の講社名簿には、海外の講社として、シアトルの『北米シヤトル講』の名も見受けられる。花柳界の講社もいくつか結成され、東京では『東京洲崎廓講』(深川廓講、洲崎遊廓)と『浅草新吉原賛成員講』(新吉原講、吉原遊廓)が結成された。 崇敬についての奉納歌厚(あつ)き御稜威(みいづ)をうち仰(あふ)ぐ、あふぎがうらの御社(みやしろ)へ、 日(ひ)にそへ年(とし)を経(へ)る毎(ごと)に、詣(まう)で来(く)る人(ひと)いや増(ま)して、 いまや都(みやこ)のまちまちは、いふにおよばず皇国(こうこく)の、 みなみは台湾(たいわん)きたは又(また)、ほく海道(かいどう)の果(は)てよりも、 遥々(はるばる)きたるのみならず、遠(とほ)くへだたるとつ国(くに)に、 行(ゆ)きて商業(なりはひ)するものも、をりをりかしの玉章(たまづさ)に、 おのがねがひの真心(まこころ)を、かきて送(おく)りてしり人(ひと)に、 ねぎごと頼(たの)む人(ひと)もあり、されば御国(みくに)に寄留(きりゅう)する、 外国(とつくに)びとのみやしろに、詣(まう)づるものも数(かず)おほし、 実(げ)にやみいづの証(しるし)とて、朱(あけ)のとりゐの数(かず)しれず、 建列(たてつら)なるぞありがたき、 穴守(あなもり)のみいづは今(いま)や扇浦(あふぎうら) とつ国人(くにひと)も仰(あふ)ぎぬるかな — 詠み人知らず 明治37年刊『穴守稲荷神社縁起』より また、明治20年頃に木村荘平他23人ほどで「イロハ講」をつくり、神社の入り口に講の名を刻んだ真っ赤な鳥居を奉納したことから、神社へ朱鳥居を寄進することが盛んになり、石造、木造、銅製など、遂にはその数4万6796基にも上り、関東地方の一名物と謳われ、「雨の日にその鳥居の下に入れば濡れぬ」とまで言われるほどの隆盛ぶりだった。現在、千本鳥居で著名な伏見稲荷大社稲荷山全体にある鳥居の数が約1万基と言われているので、それをはるかに上回る鳥居が存在していた。なお、「イロハ講」は穴守稲荷最初の講社となり、後に「東京元講」と改称し、3年ほどで東京市芝区の講元を中心に麻布区、京橋区などの住民数千人の講員を擁する有力講社となった。また、鳥居以外にも華表や燈篭、狐像、旗幟などが寄進され、林立していた。 この頃には、川崎大師と張り合うほどの有名神社となり、正月三が日の参詣は、穴守稲荷と川崎大師の両社寺を掛け持ちで巡る人が多く、早舟や渡し舟を使って動いていたという。また、2月の初午と10月17日の例祭は賑わい、日本でも著名なお祭りとして名を馳せるようになった。 穴守の稲荷と、川崎の大師は六郷川(多摩川の下流)河口の左岸と右岸に相対して、その繁盛ぶりを競うところの流行神と流行佛である — 相川二郎著『趣味の旅 名物をたづねて』より抜粋 1894年(明治27年)、鈴木新田の一部を所有していた和泉茂八が早魃に備え、良水を求めて井戸を掘ってみたところ、海水よりも濃い塩水が湧出した。これを東京衛生試験所に成分鑑定を出願したところ、湿疹や貧血、胃腸カタルなどの諸病に効くナトリウム冷鉱泉と認められた。そこで茂八は泉館という温泉旅館を起こした。その後、付近のあちこちに鉱泉が掘られ、要館・羽田館・西本館などの旅館が神社の傍らに開業した。また、それ以前より営業していた料理店も風呂を設け、後には百余軒もの社前店が並ぶほどに発展した。この温泉宿と割烹旅館の出現は、神社一帯が東京の花柳界などの保養地となり、神社参拝を兼ねた東京近郊の一大観光地として、一層の注目を集めるきっかけとなった。 鳥居前町の繫昌についての奉納歌鎮(しづ)りませるくしみたま、奇(くし)きみいづの祐(たす)けにや、 ななとせ八年前(やとせまへ)のころ、良水(よきみづ)得(え)むとゆくりなく、 一(ひとつ)の井戸(ゐど)を掘(ほ)りければ、礦泉(くわうせん)たちまち湧出(わきい)でて、 たほく病者(びゃうしゃ)を癒(いや)しけり、さればその後(のち)たれ彼(かれ)も、 之(これ)に倣(なら)ひて井(ゐ)を掘(ほ)りて、たか楼(どの)建(た)てて客(きゃく)を待(ま)つ、 社前(しゃぜん)につらなる種々(くさくさ)の、店(みせ)もひとしく客(きゃく)を呼(よ)ぶ、 よりて益々(ますます)たよりよく、名(な)には背(そむ)かぬいな妻(づま)の、 くるまも疾(はや)く通(かよ)ふなり、嗚呼(ああ)ありがたき穴守(あなもり)の、 神(かみ)の御稜威(みいづ)をかかぶるは、いく千万(ちよろづ)のひとならむ、 かくいやちこの神御霊(かむみたま)、かなめの島(しま)のあふぎ浦(うら)、 みすゑ広(ひろ)くぞ栄(さか)ゆべき、 みやしろの為(ため)に凡(すべ)ての営業(なりはひ)を いとなむ人(ひと)やいかに思(おも)ふらむ — 詠み人知らず 明治37年刊『穴守稲荷神社縁起』より 2年後の1896年(明治29年)7月には、鈴木新田に住む廣井兼吉が 「御神水講設立趣意」の届出を神社に提出しており、この鉱泉は霊水であり、鉱泉の発見そのものが穴守稲荷の霊験であると述べられている。のちの講社名簿には、その御神水元講をはじめ、東京市内の神田区・赤坂区・麹町区・麻布区・芝区・北多摩郡立川村・南多摩郡八王子町・千葉県東葛飾郡野田町・埼玉県北足立郡膝折村などに「御神水講」の講社名をみることができ、鉱泉の発見が穴守稲荷に新たな霊水信仰をもたらし、講社の発展にも寄与した。 1897年(明治30年)1月、要館などの社前店や京浜諸講社の出資により、社殿の裏手に高さ33尺(約11メートル)の稲荷山(御山)が完成した。一説には築造費用は、穴守稲荷神社の講社が5297.3円、木花元講(羽田にあった富士講の講社)4672円の折半によるものとされ、富士講の資本が入っている事から、たびたび富士塚と誤認されているが、穴守稲荷由来記(明治34年刊)、穴守稲荷縁起(明治34年刊)、穴守稲荷神社縁起 全(明治36年刊)などの広く出回った資料を見ても、すべて「稲荷山」と説明されている事からも、一部の出資者が富士塚と喧伝していたものの、世間では稲荷山として認識されていたといえる。また、1904年(明治37年)11月には、稲荷山の高さは60尺(約18メートル)であったとの記述もあるが、写真資料や他の記録も無く、その存在ははっきりしていない。 1899年(明治32年)には、歌舞伎『穴守稲荷霊験記』が浅草・宮戸座の初演を皮切りに、横浜などの繁華街でも上演されるようになった。 1901年(明治34年)には、春秋の大祭時の参詣者が多く、女性の参詣もままならないほど境内が混雑するようになったことを受けて、境内東南の隣接地4900坪を買収し、新たに神苑を開設している。同年には、中央新聞社が主催した東日本の避暑地「畿内以東十六名勝」のコンクールで「府下羽田穴守境内」が、「常州大津 八勝園」「横須賀 開陽軒」「東京芝浦 芝濱館」などを抑えて、最高点33万5934票を獲得した。また、避暑地投票後には、全国神仏各教派信者数募集が行われ、「三千四百十二 東京羽田 穴守稲荷信者」と、1位ではなかったが上位に入っている。 そして、この繁栄ぶりを見逃さなかったのが、京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)であった。鉄道を走らせることにより、徒歩か人力車に乗るかしかなかった参拝者の便を図ることを目的として、穴守への鉄道開業へ向けて動き出した。当時は、まず川崎大師への参拝を済ませると、多摩川をはさんで対岸にあった穴守稲荷神社への参拝を兼ねて、遊びに行くという人が多かった。その人々は多摩川を渡し船で渡り、穴守稲荷神社へと向かっていた。そこで、海老取川の岸から南側に曲がり、多摩川に突き当たった所で土手沿いに西へ進み、今の大師橋(その手前に羽田の渡しがあった)を越え、現在大師橋緑地になっている所にあり、川崎大師に最も近い渡し場であった中村の「新渡し」から渡し船を利用して、大師線に結ぶという構想がたてられた。 その後、当時の京浜電鉄の駅で最も穴守稲荷神社に近い京浜蒲田から延伸することになり、1902年(明治35年)6月28日には、日本初の「神社の」参詣者輸送の為の「電気鉄道」である穴守線(現・空港線)が開通し、海老取川の手前に穴守駅を開業した。品川駅への延伸より先に穴守線が開通したのは、川崎大師への参詣客輸送の大成功が大きく影響し、「川崎大師へ詣でるなら、穴守稲荷へも寄らなければ片参り」といった宣伝も行われたという。また、海老取川手前までの開通になったのは、神社周辺が既に住宅密集地であったことと、海老取川に架かっていた稲荷橋から穴守稲荷神社までの続く道中の商店主や人力車稼業の人々が、商売にならなくなると反対した為といわれている。とはいえ、この鉄道の開通は、羽田の地が東京や横浜の市民の日常的な参拝地兼行楽地になる事に繋がり、鳥居前町の一層の繫栄に寄与した。 品川より電車にのりて大森蒲田を経て、羽田に至る。橋をわたれば両側数町の間、物うる家、立ちつづき、赤き鳥居密接してトンネルを成す。そのきはまる処小祠あり。穴守稲荷とて、近年にはかに名高くなり、その参詣者の多きことは、ここに電車が通じたるにても知らるべく、鳥居のトンネルにても知らるべく、鉱泉宿、料理屋、商店など僅々十年の間、洲渚に市街を現出したるにても知らるべし。(中略)十年前、稲荷に接近せる鉱泉宿の要館に数日逗留して、著述に従事したこともありしが、その時は二三の鉱泉宿が出来て居り、祠前に十数軒出来て居りしのみなるに、十年の後には、かくまでに市街が出来るものかと、茫然として、しばし祠前に彳立す — 大町桂月著『東京遊行記』より抜粋 10年前(1890年代)は、鉱泉が発見され、鳥居前町の発展が始まりつつあった頃だが、それからの10年間で急激にしたことがうかがえ、そしてその動きを可能にし、加速させたのが、穴守線の開通であった。 この頃の京浜電鉄大鳥居駅から穴守稲荷神社の辺りは、一面の梨畑が広がり、神社の鳥居は4丁余り(約400メートル)にわたってトンネル状に連なっていた。この左右には掛茶屋や割烹、土産物屋が軒を並べ、新鮮な魚介料理を提供する一方、海藻や果実、貝細工や張子の達磨、河豚提灯、煎餅、葛餅、そして供物として土製の白狐や小餅などを販売していた。当時は穴守駅で下車して、稲荷橋を渡り、社前町を眺めながら、連なる朱の鳥居のトンネルをくぐり、穴守稲荷神社に参拝するのが、関東屈指の流行であったという。私鉄王小林一三も、京浜電鉄が発案した大師線と穴守線で周遊するプランを実際に体験し、感心をしたという。 さらには、当初穴守稲荷神社への参詣者輸送を主眼としていた京浜電鉄は、文芸評論家の押川春浪や押川の友人で文芸評論家ながら京浜電鉄に勤めていた中沢臨川の働きかけにより、1909年(明治42年)に遊園地も兼ね備えた羽田運動場(野球場)を神社裏手の江戸見崎に設置したことを嚆矢として、羽田地域の独自の観光開発に乗り出した。 1910年(明治43年)3月には、穴守線の複線化が行われ、1911年(明治44年)7月11日には、京浜電鉄は羽田穴守海水浴場を開設し、報知新聞社と提携し同社の主催で、元内閣総理大臣大隈重信伯爵や渋沢栄一、樺太探検で有名な白瀬矗中尉などを来賓に迎え、開場式を挙行した。宣伝効果もあって、会場直後の同年7月16日には、1日1万人を越える入場者が来場したと新聞の記録に残されている。その後、羽田穴守海水浴場には、毎年5万人の入場者が来場し、後には海の家や浄化海水プールも新設されている。これらの施設は、当時の海水浴場としては群を抜いたものであり、海上休憩場のほか陸上にも休憩場2棟、収容人数は1万人、特別休憩室64室、3500人分の更衣室、東洋一と謳われた海水プール、海の遊泳場には飛込台やボートもあり、総タイル張りでシャワー設備等も設けた温浴場、滑り台やシーソー等を設置した陸上遊戯場、余興場、各種売店等、あらゆる施設を備えた一大娯楽施設だった。 また同年11月18日から11月19日には、1912年ストックホルムオリンピックに日本が初参加することになったことで、予選会を都心から近くて交通の便がよい羽田運動場で開催することになり、野球場を1周約400メートルの運動場に転換して、国際オリムピック大会選手予選会が開催された。その際には、穴守稲荷神社の境内も会場として使用されている。 1913年(大正2年)12月31日には、穴守線が海老取川を渡って神社前までの延伸を果たし新穴守駅が開業した。夏季には観光客輸送のため本線と直通する急行列車も運転されるようになり、一層の賑わいを見せるようになった。 穴守稲荷神社一帯が一大行楽地と化してゆく中、1917年(大正6年)1月4日には、穴守稲荷神社の近くに玉井清太郎と相羽有らによって「日本飛行学校」と「日本飛行機製作所」が創立された。日本飛行学校の飛行場と格納庫はここではなく、多摩川対岸の川崎市に広がる干潟に建設されたが、この羽田の場所を飛行場適地と見出した先人が居たことが、後の東京飛行場建設に繋がり、今日の大空港東京国際空港の礎となった。 六郷川の海にそそぐ両岸の浅瀬の砂浜は、干潮時には一面の干潟になる。平坦であり、軽い飛行機の滑走には好適であった。 — 相羽有 1929年(昭和4年)には、昭和の御大典を機に村社へ昇格し、名実ともに鈴木新田地域の鎮守となった。同年10月には、京浜電鉄の重役から一の大鳥居として朱鳥居(後の羽田空港に残された大鳥居)が、穴守駅前に奉納されている。 そして、逓信省航空局が神社北側の土地(現在の整備場地区付近)を飛嶋文吉(飛島組)から買収して、新しい飛行場の建設に着手し、1931年(昭和6年)8月25日にそれまで立川にあった東京飛行場が移転開港した。これ以来、羽田の街は今日に至るまで空港城下町として発展してゆく事になり、航空業界の穴守稲荷神社への崇敬もここから始まっている。 1932年には、羽田競馬場が近隣の羽田入船耕地(現東糀谷付近)から、鈴木新田の東にある御台場(羽田御台場・鈴木御台場・猟師町御台場)へ移転してくることになった。予定地である御台場は多摩川の河口にできた広大な干潟で、天保年間には江戸幕府が砲台をつくろうとして中止したところでもあった。現在の東京国際空港第3ターミナルあたりがその場所である。ただ、同地は土地台帳上こそ畑地とされていたものの、満潮時にはほとんどが水没してしまう湿地帯だった。そのため、主催者側は東京湾埋立株式会社に施工を発注。同地を埋め立て、盛り土をして競馬場を建設するという当時としては一大プロジェクトを敢行した。完成した新競馬場の総面積は、10万坪(約333平方メートル)・1周1600m・幅員30mと、現在の大井競馬場の外回りコース(1周1600m、幅員25m)と同規模であった。新競馬場での最初の開催は7月3日から5日にかけて行われ、55万4229円の売上を記録している。さらに、1934年(昭和9年)7月の開催で売上は初めて100万円の大台を突破、その後も地方競馬では全国一の盛況が続き、羽田の地に新たな名所が誕生することになった。 また、1932年10月1日には、鎮座地である荏原郡羽田町が東京市へ編入され、新設された蒲田区の一部となった。あわせて、鈴木新田も羽田穴守町・羽田鈴木町・羽田江戸見町・羽田御台場・鈴木御台場に改称・分割、穴守稲荷神社の所在地も「荏原郡羽田町大字鈴木新田」から、「東京市蒲田区羽田穴守町」に変更され、名実ともに東京の街を代表する稲荷神社となった。京浜電鉄が1934年(昭和9年)に出した沿線案内では、穴守稲荷を「関西の伏見と並び称せらるゝ関東第一の稲荷社」と大々的に宣伝されている。 このように、穴守稲荷神社周辺を中心とした羽田地域一帯は、神社への参拝や鳥居前町での観光ばかりでなく、競馬や羽田運動場でのスポーツやオートレース、自転車競争、海辺では春の潮干狩り、夏の潮浴み、秋のハゼ釣り、そして東京飛行場の利用者と、多くの人で賑わっていたという。また、近くには個人経営のゴルフ場、御料や黒田侯爵家の鴨場などもあり、典型的と呼べる以上の第一級の鳥居前町であると共に、東京・横浜間の一大観光地・保養地(総合リゾート地)の様相を呈していた。 花柳社會は勿論、縁起商賣、諸藝人抔が擧って信仰するのは穴守稻荷である、流行神の番附を調製へたら大關の位置は得られるだらう — 近藤蕉雨『新小説』「穴守稲荷」より抜粋 稲荷祠多きは古来、東京の一名物なるが、ここの稲荷は最も繫昌す — 大町桂月著『東京遊行記』より抜粋 「穴守稲荷」羽田村の鈴木新田の潮除守護神として、江戸時代から祀られていた稲荷の小祠が、明治18年(1885)、公許を得て穴守稲荷と称し、商人や花柳界の信仰を集めた。35年(1902)には、京浜電車が参詣用の支線を敷設。赤鳥居や茶店が門前に並び、盛況をきわめた。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』「穴守稲荷」より抜粋 羽田 川崎 羽田の猟師町は六郷河口の一つの漁村だが、穴守稲荷があるので、京浜も人がよく遊びに出かける。穴守稲荷も繫昌するが、以前はその近くに羽田グラウンドが出来てベースボールの競技場となつたので、学生諸君にもおなじみの多い土地であつた。 — 河井醉茗著『東京近郊めぐり』より抜粋 羽田といえば、昔は漁師町と辨天とできこえたものだが、今では穴守ばかりが人口に膾炙してゐる。そしてこの穴守稲荷が賑はふやうになつたのは、まだつい二十年前で、(中略)東京近郊の屈指の流行神になつたといふことは、不思議な現象である。つまり、花柳界方面の信仰を先づ最初に得たといふことが、かう繁盛していつた第一の理由である。 — 田山花袋『東京近郊一日の行楽』より抜粋 よくよく考えて見るとそれは御三の顔である。ついでだから御三の顔をちょっと紹介するが、それはそれでふくれたものである。この間さる人が穴守稲荷から河豚の提灯をみやげに持って来てくれたが、丁度あの河豚提灯のようにふくれている。 — 夏目漱石『吾輩は猫である』9章より抜粋 府下で有名の稲荷は一々数うるに暇あらず。(中略)近来は羽田の穴守稲荷が大いに繁昌するという。 — 岡本綺堂『風俗江戸東京物語』より抜粋 蒲田區羽田穴守町。京濱電車穴守終點下車。品川から直通電車運轉、所要二五分、賃片道二四銭。蒲田から七分、一一銭。豊宇氣比賣命を祀る稲荷神社があり、穴守神社とも云ふ。四時参詣者多く、午の日には殊に賑はふ。祠を去る五十米許りの海濱は風光よく、海は遠浅で潮干狩及び海水浴に適し附近に東京飛行場がある。また穴守神社後の近くには東京附近に珍らしい鵜の群棲林がある。 — 「旅程と費用概算」(ジャパン・ツーリスト・ビューロー)より抜粋 神社一帯の風景についての奉納歌いく千代(ちよ)までも末広(すゑひろ)く、あふぎが浦(うら)に宮(みや)ばしら、 太敷(ひとし)たててうしはける、ところはながめ良(よ)き処(ところ)、 きよき羽田(はねだ)のたま川(がは)は、前(まへ)に流(なが)れてわかれては、 海老取川(えびとりがは)と名(な)にしたふ、きたは品川(しながは)わんにして、 櫛(くし)の歯(は)よりもなほ繫(しげ)き、とうきやう市街(しがい)唯一目(ただひとめ)、 ひがしは海原(うなばら)いや広(ひろ)く、幽(かす)かに見(み)ゆる山(やま)やまは、 房総諸山(ばうそうしょさん)と知(し)られたり、西(にし)は富士(ふじ)の嶺(ね)いや高(たか)く、 実(げ)に白扇(はくせん)のさまに似(に)て、はねだの川(かは)に映(うつ)るなり、 夕日(ゆふひ)を逐(おう)て帆(ほ)を揚(あ)げて、帰(かへ)るやあまのいさり舩(ぶね)、 なみのまにまに友千鳥(ともちどり)、よびかふ声(こへ)も長閑(のどけ)しや、 これぞ此地(このち)の詠(なが)めなる、 かくばかり詠(なが)めよろしき扇浦(あふぎうら) 神(かみ)も嬉(うれ)しと見(み)そなはすらむ — 詠み人知らず 明治37年刊『穴守稲荷神社縁起』より 東京を代表する観光地として繫栄を謳歌していた穴守稲荷神社と羽田地域であるが、当時の日本(大日本帝国)が1931年(昭和6年)の満州事変を機に、戦争への道を歩んでゆくことで、その荒波に翻弄されることになる。 まず、日中戦争の勃発に伴い立法された軍馬資源保護法の施行によって、羽田競馬場が1937年(昭和12年)限りで休催、翌1938年(昭和13年)に廃場へと追い込まれた。跡地には日本特殊鋼の羽田工場ができ、海岸線寄りの跡地には高射砲陣地が置かれた。日本特殊鋼のほか、荏原製作所、明電舎、大谷重工等の大手企業が1935年あたりから次々進出してきて、下請け工場も出来た。競馬場廃場の同年には、満洲国建国以降、満洲へ旅客や貨物輸送が増大したこともあり、東京飛行場の拡張用地として羽田運動場が買収され、消滅した。1939年(昭和14年)6月には、国民精神総動員運動の中で、料亭等の営業時間が短縮され、9月1日に興亜奉公日が設けられると、以後毎月一日は酒が不売となり、次第に入手も困難となった。参拝者も行楽客も激減し、料亭は工員相手の食堂になり、鉱泉宿は社員寮へ姿を変えてゆく等、穴守稲荷神社周辺の娯楽施設は急速な衰退を迎え、一帯は工場が立ち並ぶ軍需産業地帯として工場に働く労働者のための街に変貌していった。1941年(昭和16年)10月1日には、茨城県霞ヶ浦より海軍航空隊の一部が飛行機20機・士官70人・兵員1250人の東京分遣隊として東京飛行場に移され、大手企業の工場も全て軍需品を作らされるようになる。穴守の町には軍人が闊歩するようになり、穴守線も軍需産業で働く人の通勤路線となった。1942年(昭和17年)には更に戦争の影響が表れるようになり、最後まで残っていた羽田穴守海水浴場の営業も中止になった。 1944年(昭和19年)秋頃を境に、サイパンから出撃した米軍機による空襲が激しさを増した。穴守稲荷神社の近辺も間引き疎開ということになり、一時はそこに暮らす人はせいぜい20人に満たないほどになったという。 1945年(昭和20年)に入ると、日本の敗色は次第に濃厚になり、東京もたびたびの空襲に曝されるようになった。穴守稲荷神社境内にも、公設の防空壕が掘られ、近隣の避難者に供された。しかし、境内はもともとが低湿地であり、地面を掘ればすぐ水が出る状態で、浅く掘った防空壕しかできなかったという。神社自身の防空壕は、関東大震災の瓦礫を利用し、大きな御影石の陰につくって、神社の人間は空襲を避けようとしていた。 同年4月3日から4日には、社前にも爆弾が落とされ、当時の宮司金子主計が巻き込まれて死亡してしまった。その空襲では何とか焼失を免れた客殿や社務所も、羽田全域の3分の2、羽田糀谷の大部分を焼け野原にした4月15日の城南京浜大空襲で被災した。神社は米軍にとって鈴木新田地域の格好の標的だったらしく、爆弾の跡だけでも二十幾つもあったほどである。7月には、ご神体を本殿地下に埋めてお守りすることになった。 結局、神社の被害は甚大であり、宝物や神輿が失われ、多くの貴重な記録も灰塵に帰した。また、神職や崇敬者の多くも戦地に赴き、戦争のために大きな犠牲を強いられる結果となった。
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