明治の二口山道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 17:17 UTC 版)
明治5年(1872年)に、山形県の村山郡山寺村馬方駅(馬方組)の人々が、二口街道を牛馬通行可能にする工事の許可を県に願い出て、3月に工事をはじめた。続いて宮城県士族大竹徳治と仙台の北目町の商人若生儀兵衛が発起して、宮城県側での工事にとりかかった。費用約1000円は大竹らが負担して同年9月中旬までに完成させ、通行料をとって償却することにした。料金は荷物1個(重さ7貫目までを1個と数えた)につき永7文(永銭勘定による7文)、人1人につき永3文と定められた。大竹徳治は開通後まもなく亡くなった。山形県側では馬方組が資金700円を用意したが、資金不足で行き詰り、山形県の働きかけを受けた宮城県宮城郡石浜(現在の塩竈市)の海運業者白石広造が300円を出資し、明治6年(1873年)10月に完成させた。 二口山道は、物資輸送に大いに活用されたが、1882年(明治15年)に関山トンネルを通って馬車が行き来できる関山街道(現国道48号)ができると、そちらに利用を奪われ衰退した。1883年(明治16年)の交通量の2年前の3分の1以下になり、建設費の償却に苦しむことになったという。
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