明治の四大覇者
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1900年(明治33年)、岐阜県令・長谷部恕連の次男であり、フランス・パリから帰朝した化学者で、東京市京橋区南鍋町2丁目3番地(現在の東京都中央区銀座6丁目)で出版社「十一堂」を営んでいた長谷部仲彦が、日本初の純無鉛で健康を害さず、使用に耐えうる白粉を発明、販売した。同年5月10日の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の成婚の際に献上した。 1904年(明治37年)、長谷部が、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトに学んだ「近代医学の父」こと伊東玄朴の四男・伊東栄(初代、1847年‐1911年)と組み、東京市芝区(現在の東京都港区芝)で「胡蝶園」を創業、大正天皇夫妻に献上したことから「御料御園白粉」と命名して製造し、1906年(明治39年)からのちに「ミツワ石鹸」で知られる三輪善兵衛の丸見屋が販売した。紙箱は四谷区(現在の新宿区四谷)の「尚山堂」(現在の東京紙器株式会社)が製造・納品した。 「胡蝶」とは、胡の国の蝶のことで、アゲハチョウをさす。のちに商標となり社名ともなった「パピリオ」は、アゲハチョウの学名Papilioに由来する。 化粧品業界で、「白粉の御園」は、「歯磨のライオン」(「獅子印ライオン歯磨」、小林富次郎商店)、「クリームのレート」(平尾賛平商店、1954年倒産)、「クラブの洗粉」(中山太陽堂)とならぶ「明治の四大覇者」と呼ばれた。 「御園白粉」明治37年(1904)に、伊東胡蝶園から発売された無鉛白粉。明治の末頃までは、役者や芸者を中心に、使用感、仕上がりのよさから、鉛中毒をもたらす鉛白粉が使われていた。豊とよほぎのまい寿舞(二人の巫女が雄蝶と雌蝶にそれぞれ扮して舞う)が描かれ、「御料御園白粉 東京芝 胡蝶園謹製 発賣元丸見屋商店」と記された広告が書き写されている。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「御園白粉」より抜粋
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