東のレート、西のクラブ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 05:19 UTC 版)
1881年(明治14年)11月17日、山口県豊浦郡滝部村(現・同県下関市豊北町滝部)に生まれる。滝部村滝部小学校(現下関市立滝部小学校)を卒業すると、福岡県門司市(現北九州市門司区)の雑貨店に就職した。 1903年(明治36年)4月3日、21歳のとき、貿易業等で富を得た事業家をスポンサーに、兵庫県神戸市花隈町(現同市中央区花隈町)に洋品雑貨と化粧品の卸しを扱う個人商店「中山太陽堂」(現株式会社クラブコスメチックス)を創業した。 1906年(明治39年)4月3日、創業からちょうど3年後、自社製造第1号商品「クラブ洗粉」を発売、中山太陽堂を製造業に転身させた。日本の化粧品業界では、「白粉の御園」(御園白粉、胡蝶園)、「歯磨のライオン」(「獅子印ライオン歯磨」、小林富次郎商店)、「クリームのレート」(平尾賛平商店、1954年倒産)とならぶ「明治の四大覇者」と呼ばれる。中山は、新聞・雑誌といった当時の新しいメディア、自動車や飛行機など当時の新しい交通機関を利用し、斬新な広告を打った。文案家(コピーライター)や図案家(イラストレーター)を社員として採用し、高給で厚遇した。1919年(大正8年)6月、22歳の東郷青児が2週間だけ在籍したことがあり、中山に手渡された報酬は半月分で60円であった。 1915年(大正4年)、大阪市南区水崎町690番地(現・同市浪速区恵美須西)に「中山化学研究所」を設立、1917年(大正6年)、研究所の成果の事業化のために「中山化学工業所」を設立、1918年(大正7年)4月、同地に新本店、工場を竣工した。1919年(大正8年)、日本文具製造株式会社(プラトン文具株式会社)を設立、「プラトン万年筆」を売り出す。
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