東の丘とは? わかりやすく解説

東の丘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 00:44 UTC 版)

セリヌス」の記事における「東の丘」の解説

東の丘には3つの神殿がある。これらの神殿は同じ地域あり、か南北並んで建てられてはいるが、神殿Eと神殿Fの間は壁で隔てられているため、一つ聖域内の神殿複合体テメノス)では無いと思われる。この神殿複合体は、セリヌスの母都市正確に祖母都市)であるメガラアクロポリス西側斜面極めて類似性高く、これらの神殿が誰にささげられたものかを推定することができる。 神殿E(en)はこの三つの中で最も新しく紀元前460年-紀元前450年頃に建設されており、アクロポリス神殿Aと神殿Oとの類似性が高い。現在の姿1956年から1959年にかけて実施されたアナストリシス(enオリジナル素材用いた修復)の結果である。ペリスタイルは 25.33 x 67.82 メートル、6 x 15本の円柱配置(高さ10.19メートル)で、外観化粧用スタッコの跡が多く残っている。神殿各部屋の高さがそれぞれ変わるという特徴有している。10段階段登る東側入り口がある。イン・アンティス形式のプロナオスに続き、6段の階段を登ってナオスに入る。ナオス背後のアディトンまでにはさらに6段の階段がある。アディトンの背後には、壁で隔てられてイン・アンティス形式のオピストドモス(宝物庫)がある。ナオスの壁の上方のドーリア式フリーズには人を描写したメトープがある。顔および女性の肌が露出した部分高級な純白パリアン大理石en)で作られており、残り部位地元産の石材使われている。 メトープの内4つ復元されている:アマゾーンの女王アンティオペーを倒すヘラクレスヘーラーゼウス婚姻アルテミス猟犬襲われるアクタイオーンギガントマキアーエンケラドスを倒すアテーナー、である。小さな破片が見つかっているものは、アポローンダプネー推定されている。これらはパレルモ考古学博物館保管されている。近年神殿Eの内部および地下試掘結果から、以前には2つ神聖な建物があり、その一つ紀元前510年破壊されたことが判明した奉納され石碑碑文から神殿Eはヘラ捧げられたものと分かるが、何人かの学者構造的な類似性からアプロディーテー神殿推定している。 神殿F(en)は最も古く、最も小さな神殿紀元前550年から紀元前540年の間に、神殿Cをモデルとして建てられた。3つの神殿の中では最もひどく略奪されている。ペリスタイルは24.43 x 61.83メートル、6 x 14円柱配置(高さ9.11メートル)で、円柱の間のスペースに石の遮蔽物(高さ4.7メートル)があり、そこに付け台輪有する偽のドア描かれている。実際入り口東端にある。この遮蔽物目的不明である、ギリシア神殿の中では珍しい。奉献物を守り特定の儀式ディオニソス密議など)を意図しない人物から見られないようにするための物ではないか考える者もいる。内側には円柱の第2列が立つポルチコと、プロナオス、ナオス、アディトンが細い単一構造物中にある(アルカイック期形式である)。 東側では後期アルカイック形式メトープ紀元前500年)が、1823年発掘発見されている。アテーナーまたはディオニソス二人巨人を倒すところが描写されている。現在ではこのメトープパレルモ州立考古学博物館保管されている。学者神殿Fをアテーナーもしくはディオニソス捧げられたものと考えている。 神殿G(en)はセリヌスで最も大きな神殿長さ113.34メートル、幅54.05メートル、高さ30メートル)でギリシア世界中でも最も大きな神殿一つである.。紀元前530年から建設始まり紀元前409年時点でもまだ建設途中であった(建設長い期間に渡ったため、複数異な様式採用されている。東側アルカイック様式で、西側古典様式である)。いくつかの円柱には溝がなく、10キロメートル離れたキャヴェ・ディ・クーサに同じサイズ円柱一部転がっている。 現在は瓦礫となっているが、本来は8 x 17円柱(高さ16.27メートル直径3.41メートル配置ペリスタイルで、1832年修復された1本の円柱みが立っている。このシチリア語で“lu fusu di la vecchia”(古代の場所)と呼ばれている。プロナオスは前面四本円柱並べたプロステュロス形式である。ナオス最後部が付け柱となったアンタエ(壁端)で仕切られており、プロナオスからは前面3箇所の扉で出入りするナオスは非常に大きく上部開放されており、3本廊下分けられていた。両側各階10本の細い支柱支えられ3階建て屋根つきギャラリーで、天井室につながる二つ並行した階段があった。中央の廊下には屋根無かった思われる中央廊下後部にはアディトンがあり、壁でナオス仕切られている。アディトン内部からは傷ついたあるいは瀕死巨人胴体と、「セリヌスの大テーブル」として知られる重要な碑文発見されている。後部には、イン・アンティス形式のオピストドモス(宝物室)があり、ナオスからは直接出入りできないよになっている遺跡の中で特に注目すべきは、スタッコ化粧された何本かの完成した円柱と、側部に蹄鉄型の溝を持ったエンタブラチュアブロックである。この溝にロープをかけてエンタブラチュア引き上げた神殿Gは都市宝物庫として機能し碑文からはアポローン捧げられたものと思われるが、最近の研究ではゼウス神殿とも示唆されている。 丘の麓、コットーネ川の河口には「東港」があり、内部の幅は600メートル上でアクロポリスを守る防波堤があったと思われる紀元前4世紀および3世紀拡張され、また南北向き埠頭作られた。セリヌス二つの港は現在では堆積してしまっているが、セリヌス河口の「西港」が主力の港であった城壁外側の広い段丘には、貿易商業および港湾管理専門区域があった。 現在のマリネッラ北部には、ブッファネクロポリスがある。

※この「東の丘」の解説は、「セリヌス」の解説の一部です。
「東の丘」を含む「セリヌス」の記事については、「セリヌス」の概要を参照ください。

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