アクロポリス【(ギリシャ)akropolis】
アクロポリス 【akropolis】
アクロポリス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/19 16:01 UTC 版)
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アクロポリス(ギリシア語: ἀκρόπολις)とは、都市国家で、神域としての神殿を中心に構成される場所。もとは城塞としての丘であったが、次第に聖域としての性格を強めた。ギリシャの都市国家は、年ごとに守護神(ゼウス、ヘラ、アテネ、アポロ、ポセイドンなど)を崇拝し、ときには多神教国として複数神を祀った。[1]
古代ギリシアのポリスのシンボルとなった小高い丘のこと。アクロポリスは「高いところ、城市」を意味し、防壁で固められた自然の丘に神殿や砦が築かれているのが普通である。
歴史王以下の諸王の居城であったと伝えられている。ポリス成立後は、神殿や有事の際の避難場としての機能を有する宗教的、軍事的中核として位置づけられるようになった。ポリス成立以前の王城は、都市国家のシンボルとしてのアクロポリスへとその姿を変えたのである。
また、ホメロスによる叙事詩『オデュッセイア』には、「魂のアクロポリス」「肉体のアクロポリス」といった比喩的表現をみることもできる。
アテナイのアクロポリス

なかでも有名なのがアテナイのアクロポリスである。ペルシア戦争時に木造建築のために全てが灰に帰したと伝えられているが、その後の石造建築による再建の結果、ペリクレスの時代に最も輝かしい時代を迎え、今日の私たちの知るアクロポリスが誕生した。
現在この丘には、古代ギリシア美術を代表する4つの傑作、パルテノン神殿、プロピュライア(神域の入り口の門)、エレクテイオン、アテナ・ニケ神殿がある。二千年の歴史を刻んだパルテノン神殿は、白色とも桃色ともつかない光の加減で変化する大理石の柱46本が青空を背景に荘厳な雰囲気を漂わせている。
各地のアクロポリス

これに対してスパルタのアクロポリスは低く目立たない丘で上に神殿が築かれ、ヘレニズム時代には南部の斜面に大劇場がつくられた。メガラのアクロポリスは双生児のように並ぶ二つの丘陵で、アルゴスでも大小二つの丘がアクロポリスとして固められた。コリントスのアクロポリスは、市の背後にそびえる「アクロコリントス」と呼ばれた巨大な丘で、頂上にはアフロディテ神殿などが建てられた。
脚注
- ^ 戸谷英世・竹山清明『建築物・様式ビジュアルハンドブック』株式会社エクスナレッジ、2009年、145頁。
関連項目
- ギリシャ
- アテナイ
- アテーナー
- アクロポリス・ラリー - 場所的にはスタートがパルテノン神殿付近となる。
外部リンク
- The Acropolis of Athens - ギリシャ政府サイト
- The Acropolis Restoration Project - ギリシャ政府サイト
アクロポリス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 00:44 UTC 版)
アクロポリスは白色石灰岩の台地で、南側は海に面した50メートル近い崖である。南側の幅は300メートル以上あるが、北側は幅140メートル程度まで狭くなり、全体として台形状である、高さ11メートル程度の支持壁で覆われ、さらに城壁(何度も改修・変更されている)で囲まれている。城壁は外部を四角に切断した石で、内部は自然石で作られている。かつては6箇所の塔櫓と4つの門があった。北部には紀元前4世紀初めに作られた3階建ての長い通廊(ギャラリー)からなる大規模な要塞建造物がある。この要塞はアクロポリスの北面すべてを覆っている。アクロポリスに入り口にはポルックスの塔があるが、これは16世紀にバルバリア海賊を阻止するために、古代の塔または灯台の上に作られたものである。 街は都市計画によって直交する2本の大通り(幅9メートル)で4つの区域に分けられている。南北の道路の長さは425メートル、東西の道路の長さは338メートルである。32メートル毎に幅5メートルの小さな道路が作られている。この都市計画は紀元前4世紀(すなわちカルタゴ支配時代)に遡るものである。 複数の祭壇と小さな聖域は、植民地が建設されたときのものであり、その50年後により大きく恒久的な神殿に置き換えられた。最初の祭壇は神殿CおよびBの近くにあり「メガロン」と呼ばれている。神殿Oの正面には、紀元前409年の征服後にカルタゴの生贄祭壇が作られている。空積みレンガで作られた部屋で部屋で構成されており、灰が入った花瓶やカルタゴ式の「魚雷型」アンフォラが堆積していた。アクロポリスの丘の上にはいくつかのドーリア式神殿が建っている。 神殿Oと神殿Aは、岩盤の基礎と紀元前490年から460年の間に建設された祭壇以外はほとんど残っていない。両者の構造は全く同一で、東側の丘にある神殿Eとも類似している。ペリスタイルは幅16.2メートル、長さ40.2メートルで、6 x 14 本の柱(高さ6.23メートル)で屋根が支えられていた。内部にはプロナオス(神殿の前室)とナオス(内陣)があった。ナオスはプロナオスから一段高くなっており、ナオスにはさらに一段高くなったアディトン(神像安置室)があった。神殿Aのナオスとプロナオスの間の壁には、2箇所の螺旋階段があり、上部のギャラリーに行けるようになっていた。神殿Aのプロナオスはモザイクとなっており、フェニキアの神であるタニト女神(en)の象徴、ケーリュケイオン、太陽、クラウン、ブクラニウム(雄牛の頭)が描かれており、カルタゴ時代の宗教的あるいは家庭的施設からの再利用が示唆される。神殿Oはポセイドンあるいはアテーナーに捧げられたものと思われる。神殿Aはディオスクーロイまたはアポロ神殿である。 神殿Aの34メートル東側には、アクロポリスへの堂々とした入り口が残っている。入り口はT型のフロアプランを持ったプロピュライア形式で、5 x 12の円柱配列からなるペリスタイルを持つ13 x 5.6メートルの長方形と、6.78 x 7.25メートルの長方形の部屋で構成されている。 東西に走る大通りを挟んで、最初の聖域とその北側に2番目の聖域がある。神殿Cの南側には、紀元前580年から紀元前570年頃に建設された17.65 x 5.5 メートルの「祭壇」がある。アルカイック形式のメガロン(en)はおそらくは神に捧げることを意図したものであろう。プロナオスは無く、東端の入り口は直接ナオスに繋がっている。後部には正方形のアディトンがあり、後日にはさらに第三の部屋が追加された。祭壇はデーメーテールに捧げられたものと思われる。 祭壇の右横にはヘレニズム期の神殿Bが建つ。神殿は8.4 x 4.6メートルと小さく、状態も悪い。この神殿はプロスタイル(前柱廊式)のポルチコを持ち、柱は4本で9段の階段があり、その奥にプロナオスとナオスがある。1824年には、まだ多色のスタッコが明瞭に視認できた。おそらくは紀元前250年前後に建設されたもので、セリヌスが放棄される直前のものである。紀元前409年にセリヌスは一旦破壊され、その後再建されてはいるが、この神殿はその間に建設された唯一の宗教施設である。その目的はあいまいである。以前にはセリヌスの湿地帯を資材を投げ打って改良したエンペドクレスのヘローン(廟)と信じられていたが、現在では建設時期からその説は否定されている。現在ではヘレニズムの影響を受けたカルタゴの宗教、おそらくはデメテルかアスクレーピオス - エシュムン(en)の神殿と推定されている。 神殿C(en)はこの地区では最も古く、紀元前550年に建設されたものである。1925年-27年にかけて北側の17本の円柱のうち14本が、エンタブラチュアの一部と共に再建されている。24 x 63.7メートルのペリスタイルと 6 x 17の円柱配列(高さ8.62メートル)を持つ。階段を8段上ると2列目の柱を持つポルチコに達し、プロナオスにつながる。その背後には、ナオスとアディトンが細長い単一の構造体として設けられている(アルカイック形式の特徴である)。これは基本的には東の丘の神殿Fと同じフロアプランである。典型的なドーリア式神殿からいくつかの実験的試みあるいは変更が行われているが、それらは後には標準的なものとなっている:円柱は太くて巨大であり(何本かは一つの石材で作られている)、エンタシスは無く、円柱の溝の数にはバリエーションがあり、柱間幅も変わり、四隅の円柱は他のものより直径が大きい、等である。この神殿から発見された遺物には:コーニスの装飾に使われていた赤、茶色、紫の多色テラコッタの一部、ペディメントを飾っていた高さ2.5メートルのゴルゴンの頭、ゴルゴンを倒すペルセウスを意味する3つのメトープ、ケエルコプスを捕らえたヘラクレス、アポローンのカドリーガ(4頭立ての戦車)の正面図、などがある。これらは全てパレルモの考古学博物館に展示されている。碑文から全てアポローンのもの、あるいはヘラクレスに捧げられた数百の印章が発見されていることから、神殿Cはおそらく収蔵庫として使われていたと思われる。 神殿Cの東には長方形の大祭壇(長さ20.4メートル×幅8メートル)があり、基礎と何段かの階段が残っている。その後にヘレニズム期のアゴラがある。少し離れたところに、ドーリア式ポルティコ(長さ57メートル、深さ2.8メートル)に接してアクロポリスの支持壁の一部を見下ろす家とテラスの遺跡がある 次の神殿Dは紀元前540年に建設されている。西面は南北に走る大通りに面している。ペリスタイルは24メートル x 56メートルで、6 x 13本の円柱配列(高さ7.51メートル)を持つ。プロナオスはイン・アンティス形式で、細長いナオスがあり、一番奥にアディトンがある。神殿Dは神殿Cより標準化されているが(円柱はやや傾いており、より細く、エンタシスを持っている)、円柱間の長さおよびその直径が一定でないこと、円柱に溝の数などアルカイック様式の特徴もある。神殿Cと同様に、ナオスとペリスタイルの舗装には多数の円形または四角形の窪みがあるが、これらの目的は不明である。その碑文から、神殿Dはアテーネーに捧げられたものと思われるが、アプロディーテーの可能性もある。外部の大きな祭壇の向きは、神殿の軸とは一致しておらずが、南西の角にずれて位置している。このことから、かつては同じ場所に古い神殿が違う向きで建っていたことを示唆している。 神殿Dの東には、小さな祭壇があり、これはアルカイック形式の神殿Y(または小メトープの神殿)の地下室の正面にあたる。復元されたメトープ(装飾板)は、高さ84センチメートルで、紀元前570年に遡ることができると思われる。それはしゃがんだスフィンクス、デルフォイ三神(レートー、アポローン、アルテミス)の正面図、牡牛(ゼウスが化けた)に乗るエウローペーを描写したものである。残り二つのメトープは紀元前560年頃のもので、ヘルモクラテスが城壁を修復した際(紀元前408年)に利用したものである。それらはデーメーテールとコーレー(またはヘーリオス、アポロ、セレーネー)が乗る4頭立ての戦車と、エレウシスの密議と3人の女性(デーメーテール、コーレー、ヘカテーまたはモイライ三女神)。これらもパレルモの考古学博物館に保管されている。 神殿Cと神殿Dの間にはギリシア・カルタゴ時代の石材を再利用した5世紀のビザンチン村の廃墟がある。いくつかの家が神殿Cの倒れた円柱に押しつぶされていることから、セリヌスの神殿を破壊した地震が中世に発生したことがわかる。 アクロポリス北部には、南北に走る大通りを挟んで二つの区域があるが、紀元前409年の破壊後にヘルモクラテスが修復している。家は大きくなく、回収した材料で建てられている。十字架が刻まれているものもあり、後にキリスト教の建物として使用されたか、あるいはキリスト教徒が住んでいた可能性がある。 アクロポリスの最北端には、アクロポリス防衛のために壮大な要塞建造物がある。アクロポリスの城壁に並行して三階建ての長いギャラリー(屋根付き通路)が建設されていた。ギャラリーには多数の弓狭間があり、アーチ天井の連絡通路を通って兵は直ちに移動できる。さらには防衛用の深い空堀がある。ギャラリーの西端、東端(北側に突出)には半円形の塔がある。北側の塔(地下に武器庫がある)の外側には、東西に走る塹壕への入り口がある。要塞建造物のほんの一部のみが旧市街に属しているが、これは主に紀元前4世紀のヘルモクラテスの修復と、紀元前3世紀の修復の際のものである。神殿の建材が要塞に再利用されていることから、紀元前409年にセリヌスが破壊された際に、いくつかの神殿も破壊されたことを示している。
※この「アクロポリス」の解説は、「セリヌス」の解説の一部です。
「アクロポリス」を含む「セリヌス」の記事については、「セリヌス」の概要を参照ください。
「アクロポリス」の例文・使い方・用例・文例
- アクロポリスという,ギリシアの神殿のある聖域
- アテネのアクロポリス
- 「アクロポリス」という言葉はギリシャ語で「高地にある都市」を意味する。
- ギリシャ・アテネのアクロポリスにある数多くの建造物の遺跡は古代ギリシャ建築の最高傑作だ。
- 紀元前6世紀中ごろ,アクロポリスは聖域として栄えた。
- 紀元前480年,アクロポリスはペルシャ軍によって破壊された。
- しかし,紀元前5世紀後半には,今日アクロポリスで見られる重要な建物の大部分がアテネの指導者ペリクレスの指揮の下で再建された。
- アクロポリスにある4つの主要な遺跡を見てみよう。
- パルテノン神殿はアクロポリスの中心にある。
- プロピライアはアクロポリスへの巨大な入口だ。
- アクロポリスへの立ち入りはここで制限されていた。
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