アクロポリス要塞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 13:54 UTC 版)
「タレントゥム攻城戦 (紀元前212年)」の記事における「アクロポリス要塞」の解説
夜明けになると、ハンニバルはアゴラ内部に兵を入れた。他方、生き残っていたローマ人はアクロポリスの要塞内部に撤退した。次に、市民を非武装の状態で集め、親カルタゴ派市民はカルタゴ軍はタレントゥム防衛のために入城したのであって、一般市民に静謐を保つように諭した。ローマに親近感を持つタレントゥム市民は、ローマ人とともに行動することを望み、アクロポリスに避難した。ハンニバルは集まった人々に好意的に働きかけ、タレントゥム市民は彼の言葉を受け入れた。次に家の扉にローマ人、タレントゥム人と書くように命じ、ローマ人と書かれた家の住民は死刑が宣告された。その執行に何人かの指揮官が選ばれ、家財は略奪された。 これが完了した後、翌日にはタレントゥム市民も出席した会議が開催された。ハンニバルはローマ軍の攻撃に備え、アゴラとアクロポリスのローマ要塞の間に新たな城壁を作ることを決定した。まず要塞の城壁に並行して壁を築き、続いてその手前に濠が掘られた。 この工事が開始されると、ローマ軍は大胆にもカルタゴ軍を攻撃することを決意した。戦闘は2つの壁の間の極めて狭い場所で行われたため、激烈なものとなった。最終的には、ローマ軍は要塞に撤退することとなった。戦闘で死んだ兵も多かったが、ほとんどはカルタゴ軍に追い詰められて濠に落下して死亡した。その後工事が行われている間、ローマ軍の攻撃はなく、柵や深い堀が完成した。この新しい城壁のため、タレントゥム市民はカルタゴ軍の支援が無くとも、ローマ軍守備部隊に対抗できるようになった。タレントゥム防衛のために適当な数の守備部隊と騎兵を残し、ハンニバルは残りの兵を率いてガレソ川方面に移動し、街から7.5キロメートル程はなれた場所に野営した。タレントゥム市民の協力により工事が早期に完成したため、ローマ軍が守備するアクロポリスの攻略は可能であると考えた。ローマ軍に近郊のマテポントから海路援軍が到着したことを知ったとき、ハンニバルは実質的に攻城戦の準備を完了していた。この時点で最も重要なのは、制海権の確保であり、これはタレントゥム市民に委ねられた。アクロポリスのローマ軍が制海権を握り、近郊の都市との連絡が可能であったため、内港に閉じこめられたタレントゥムの船は使えなかった。他方ローマは危険を冒すこと無く、海上から補給を受けることができた。 ここでハンニバルは新しい計画を立案した。内港に停泊しているタレントゥム船を巨大な荷車に載せ、陸上を移動させて外海に運び制海権を得るというものである。これによって、アクロポリスへの補給を海陸ともに絶つことが可能となった。ハンニバルは守備兵のみを残し、3日の距離にある野営地へと引き揚げた。
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