制海権の確保
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:47 UTC 版)
海軍の育成にも力を注ぎ、1533年にアルジェを本拠地とするバルバリア海賊のバルバロス・ハイレッディンが帰順すると彼を海軍提督=パシャとした。彼の帰順によりアルジェリアもオスマン帝国領となり、西地中海に足がかりを得ると共に、海軍力も大幅に増強された。彼の率いるオスマン帝国海軍は1538年のプレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊を破り、地中海の制海権を握った。同年にモルドバへ遠征し従属国クリミア・ハン国との通路を確保、黒海も事実上支配下に収めた。ピーリー・レイースが海軍で名を挙げるのもスレイマン1世の時代である。 また、1540年にサポヤイ・ヤーノシュが亡くなると、フェルディナントが和睦を破りブダを占拠したため、1541年に再びハンガリーへ遠征して平定、トランシルヴァニアも属国とした上でハンガリーを分割することに決め、フェルディナントは北と西の領土(王領ハンガリー)、ヤーノシュの遺児ヤーノシュ・ジグモンドはハンガリー東部(東ハンガリー王国)、オスマン帝国は中央と南(オスマン帝国領ハンガリー)を領有した。以後も小競り合いは続いたが、1547年に和睦しフェルディナントがオスマン帝国に貢納金を支払い、それぞれの領地は認められた。 ハプスブルク家に対抗するため1535年にフランス国王フランソワ1世と同盟を結び、1543年には、オスマン艦隊とフランス艦隊が共同でニースを攻略した。さらに、ハプスブルク家と対立していたドイツのルター派をフランソワ1世を通じて間接的に援助したとも言われ、フランソワ1世とその後継者アンリ2世がルター派諸侯に送った資金の大部分はオスマン帝国から供出されていたようである。後にスレイマン1世は、ハプスブルク家の支配下であったネーデルラントのルター派に対しても援助を申し出た。 この他、紅海とインド洋に進出しているポルトガルとも対立、1538年に遠くインド北西部のグジャラート・スルターン朝(ポルトガルと対立していた)からの救援要請に応えインド洋に艦隊を派遣したり、アラビア半島に進出してイエメンのアデンを獲得、対岸も占領してポルトガルを牽制しようと図ったり、1552年にペルシア湾の港を奪い取りポルトガルを妨害しようとしたが、いずれも海上政策では上手であるポルトガルの前に失敗している。ただしイエメンは確保、ポルトガルとオスマン帝国は後に互いの海域を設定して住み分けている。
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