ロシアの進出
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近代に入ると、北からロシアが徐々に進出を始める。1556年には北岸にあったアストラハン・ハン国をロシア・ツァーリ国のイヴァン4世が滅ぼし、北岸を支配下に治めた。これに対しオスマン帝国がアストラハン奪回のため兵を挙げ、露土戦争が起きたものの撤退し、ロシアのアストラハン支配は確定された。1668年にはスチェパン・ラージンがヴォルガ川からカスピ海沿岸を略奪し、サファヴィー朝ペルシア領だった南岸のラシュトまで到達して劫略を行った。しかし、ロシアが本格的にカスピ海へと進出を始めるのは18世紀初頭のピョートル大帝の時代である。ピョートルはカスピ海に遠征軍を派遣し、調査を行ってカスピ海の地図を刊行させるとともに、1722年にはアストラハンにカスピ小艦隊を設置して制海権の確保に乗り出した。同年、ピョートルはサファヴィー朝に宣戦を布告し、ロシア・ペルシャ戦争が勃発する。当時サファヴィー朝は、まさにこの年に首都エスファハーンをギルザイ部族の軍事政権に占領され、事実上滅亡状態にあったこともあってロシアは優勢に戦争を進め、1723年にはサンクトペテルブルク条約が結ばれた。ロシアはデルベント、バクー、シルヴァン州、ギーラーン州、マーザンダラーン州とアスタラーバードを獲得し、ロシアは東岸の荒れ地を除くカスピ海沿岸のほぼ全域を手に入れた。ロシアがカスピ海南岸を手に入れたのは、この時が唯一である。しかしサファヴィー朝はタフマースブ2世を擁立したナーディル・シャーによって復興し、勢力を回復させつつあった。1732年、露土戦争が迫る中、ロシアはペルシャと同盟を結ぶためラシュト条約を締結し、サンクトペテルブルク条約で取得した全ての領土をペルシャに返還することに合意し、カスピ海南岸・西岸は再びペルシャ領に戻った。 その後、1736年にサファヴィー朝を簒奪してアフシャール朝を開いたナーディル・シャーの下、ペルシャは再びカスピ海南岸・西岸の支配を確立する。この支配はアフシャール朝衰退後のザンド朝、さらに1796年にそれを打倒したガージャール朝にも受け継がれる。しかし、この頃には国力を著しく増大させたロシアが、再びグルジア(ジョージア)の支配を巡ってペルシャと激しく対立するようになっていた。 1804年から1813年の第一次ロシア・ペルシア戦争に勝利したロシアは、1813年のゴレスターン条約によってカスピ海西岸のダゲスタンやアゼルバイジャンを獲得し、1826年から1828年の第二次ロシア・ペルシア戦争によるトルコマンチャーイ条約によって、カスピ海におけるロシア軍艦の独占通行権を認めさせ、これによりカスピ海上はロシアの制海権の下におかれた。西岸のロシア支配はこれで確立したが、東岸はいまだトルクメン諸部族の支配下に置かれていた。しかし、不凍港を求めるロシアの伝統的な南下政策は19世紀中盤にはこの地域にも及び、グレート・ゲームと呼ばれる中央アジアを巡るイギリス・ロシアの角逐の中で、徐々にこの地域への圧力を強化していく。ロシアがこの地域の本格的な併合に乗り出すのは、1869年にはカスピ海東岸にクラスノヴォツク(現在のトルクメンバシ)要塞を建設したときからである。ここを橋頭堡としてトルクメニスタン地方へと進出し、1873年には南岸を除いたほぼ全域がロシア領となった。ロシアはカスピ沿岸にザカスピ州を置き、1879年にはクラスノヴォツクから内陸へと走るカスピ海横断鉄道が建設され、1905年にはバクーからクラスノヴォツクを結ぶ鉄道連絡船も開業した。経済的には、1870年代にはバクーの石油産業が大発展を遂げた。
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