日本への帰国と日露交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 06:09 UTC 版)
「大黒屋光太夫」の記事における「日本への帰国と日露交渉」の解説
日本に対して漂流民を返還する目的で遣日使節アダム・ラクスマン(キリルの次男)に伴われ、漂流から約10年を経て磯吉、小市と3人で根室へ上陸、帰国を果たした。現在の北海道東端である根室では、蝦夷地(北海道)を支配していた松前藩を経由して江戸の幕府に伺いを立てる必要があって交渉に時間がかかり、一行は根室で越冬を余儀なくされた。日本人漂流民で最年長であった小市はこの地で死亡した。死因はビタミンC不足による壊血病と推測される。ラクスマン来航200周年の1992年10月に慰霊碑が建てられた、同様に壊血病で亡くなった松前藩士鈴木熊蔵やロシア人船員とともに供養された一行には患者が続出していた。残る2人が江戸へ送られた。 光太夫を含め神昌丸で出航した17名のうち、1名はアムチトカ島漂着前に船内で死亡、11名はアムチトカ島やロシア国内で死亡、新蔵と庄蔵の2名が正教に改宗したためイルクーツクに残留。帰国できたのは光太夫、磯吉、小市の3名だけであった。 帰国後は、11代将軍徳川家斉の前で聞き取りを受け、その記録は桂川甫周が『漂民御覧之記』としてまとめ、多くの写本がのこされた。また甫周は、光太夫の口述と『ゼオガラヒ』という地理学書をもとにして『北槎聞略』を編纂した。海外情勢を知る光太夫の豊富な見聞は、蘭学発展に寄与することになった。 光太夫は、ロシアの進出に伴い北方情勢が緊迫していることを話し、この頃から幕府も樺太や千島列島に関して防衛意識を強めていくようになった。 その後、光太夫と磯吉は江戸番町の薬園に居宅をもらって生涯を暮らした。ここで光太夫は新たに妻も迎えている。故郷から光太夫ら一行の親族も訪ねて来ており、昭和61年(1986年)に発見された古文書によって故郷の伊勢へも一度帰国を許されていることが確認されている。寛政7年(1795年)には大槻玄沢が実施したオランダ正月を祝う会に招待されており、桂川甫周を始めとして多くの知識人たちとも交際を持っていた。 光太夫の生涯を描いた小説『おろしや国酔夢譚』(井上靖、1968年)では帰国後の光太夫と磯吉は自宅に軟禁され、不自由な生活を送っていたように描かれているが、実際には以上のように比較的自由な生活を送っており、決して罪人のように扱われていたわけではなかったようである。それら資料の発見以降に発表された小説『大黒屋光太夫』(吉村昭、2003年)では事実を反映した結末となっている。 なお、三重県鈴鹿市若松東には光太夫の行方不明から2年後に死亡したものと思い込んだ荷主が建立した砂岩の供養碑があり、1986年に鈴鹿市の文化財に指定されている。
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