北槎聞略とは? わかりやすく解説

ほくさぶんりゃく【北槎聞略】


北槎聞略〈寛政六年八月/〉

主名称: 北槎聞略〈寛政六年八月/〉
指定番号 65
枝番 0
指定年月日 1993.01.20(平成5.01.20)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 歴史資料
ト書
員数 12冊、2巻、1帖、9鋪
時代区分 江戸
年代 寛政6年
検索年代
解説文: 天明二年(一七八二)十二月伊勢白子【しろこ】の船神昌丸【じんしようまる】は駿河沖で遭難しアリューシャン列島の一孤島漂着したロシア船に救助され船頭大黒屋光太夫だいこくやこうだゆう】等は学者キリール・ラクスマンと知りあって首都サンクトペテルブルク至り女帝エカチェリーナ二世謁見帰国嘆願したその間ロシア上流人士厚遇され大国として勃興しつつあったロシア通じて西欧文明見聞した
 当時ロシア日本北辺迫り日本船員送還好機日本通交求めたため、光太夫等は寛政四年(一七九二)、遣日修好使節アダム・ラクスマンの船で根室帰還した帰国した光太夫磯吉二人江戸送られ江戸城において将軍家斉【いえなり】の上覧を受けるとともに幕府医官蘭学者である桂川甫周かつらがわほしゆう】から漂流事情ロシアの政治地理・文化全般ロシア語に関して詳細に聴取された。甫周は光太夫等が持ち帰った物品について精細な彩色写生図を作り、また各種地図についても模写作成した。この記録は『北槎聞略』と題され寛政六年八月に上呈された。
 『北槎聞略』は本文十一冊、付録一冊、衣服器什の図二巻地図十点からなる
 本文漂流事情と、ロシアの地理風土政治・社会の諸制度および生活・文化に関する七六項目に分類整理した記述で、十八世紀末のシベリア・ロシアについての広範詳密記録である。巻六の「文字」では初学者テキストロシア文字記し、「宝貨」ではロシア貨幣拓本載せている。図二巻のうち「衣服」は、ロシア衣服を図で示したもので、「器什」は、光太夫磯吉女帝から拝領したメダル時計煙草入を初めエカチェリーナ二世像の掛絵、短刀顕微鏡のほか日用品等を描く。末尾に、寛政六年に「照真影写」したという桂川甫周の跋がある。地図は、地球全図のほか世界各地域、ロシア国内首都サンクトペテルブルク地図等の図で、いずれもロシア製の銅版地図入念に模写している。
 『北槎聞略』はわが国漂流記中の傑作であり、江戸時代外国事情に関するすぐれた記録として、またわが国ロシア研究端緒となる資料として価値が高い。

北槎聞略

読み方:ホクサブンリャク(hokusabunryaku)

分野 地誌

年代 江戸後期

作者 桂川甫周


北槎聞略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/04 04:32 UTC 版)

北槎聞略』(ほくさぶんりゃく)は、桂川甫周大黒屋光太夫らから聴取した内容などをもとに著した地誌。寛政6年(1794年)成立[1]。本文11巻・付録1巻・衣類器什図等2軸・地図10葉から成る[1]。日本の漂流記の最高傑作とされ、日本のロシア学の発端と位置づけられる作品である[1]

内容

天明2年12月(1783年)、駿河沖で遭難した伊勢国の神昌丸の乗組員が、約8か月の漂流の末、船内で死亡した1名を除く16名が、当時ロシア帝国の属領となっていたアリューシャン列島アムチトカ島(アミシヤツカと表記、以下括弧内は『北槎聞略』中の表記)に漂着した。彼らは厳しい冬で仲間を次々と失いながらも、4年後に現地のロシア人と協力して船を手作りし、カムチャツカ(カムシヤツカ)に渡る。翌年に同地を出発し、オホーツク(ヲホツカ)、ヤクーツク(ヤコツカ)を経由し、寛政元年(1789年)にイルクーツク(イルコツカ)に到着した。船頭光太夫は日本帰国の許しを得るため、キリル・ラクスマン(ラックスマン)の協力を得て、モスクワ(ムスクワとも記す)経由で帝都サンクトペテルブルク(ペートルボルグ)に向かう。光太夫らは女帝エカチェリーナ2世(ヱカテリナ)に拝謁、9か月のサンクトペテルブルク滞在後、帰化した2名や死者を除いた3名が遣日使節アダム・ラクスマンと共に帰国の途に着き、寛政4年(1792年)9月に根室に到着する。根室で死亡した1名を除く光太夫と磯吉の2名は江戸に渡り、翌1793年9月18日、吹上御苑にて将軍に拝謁、ロシアから持ち帰った品を献上する。

幕府の医官で蘭学者桂川甫周は、光太夫と磯吉に諮問し、その答えとドイツ人のヨハン・ヒューブナードイツ語版英語版によって記された世界地理書のオランダ語訳である「Algemeen Geographie」(『ゼヲガラヒ』と表記)のロシアについての記述などを参照しながら、その見聞体験を収録した。記載内容の中には、漂流やロシア帝国内の移動の苦労や厳しい冬、仲間を厳しい寒さなどで次々に失う様子、ロシアの多くの人々との出会い、皇帝への謁見、日本帰国などの「漂流記」からロシアの風俗、衣服、文字、什器類、民族などの「博物誌」相当記事、ロシアで訪問した諸施設や諸貴族の館の様子といった「見聞録」相当記事、ロシア文字や主なロシア語の単語を紹介する言語学的な記事など、幅広い記述に満ちている。見聞録の中には孤児院(幼院)に赤ちゃんポストが備えられている様子やその運用方法、サンクトペテルブルクの高級な政府公認の遊廓(娼家)で客である光太夫が、娼婦らから訪問のたびに逆に金品を贈られる様子など、興味深い記述も多い。

内容には、明らかな誤りや、極東地方の方言を標準ロシア語と思っていたと思われる記述もあるが、そもそも光太夫・磯吉は高等教育を受けた学者などではなく、本来は船頭と水夫である。しかし、光太夫らの記憶していた事項は驚くほど多種多様である。記憶違いなどに起因する明らかな間違いなどは甫周ができる限り注釈をいれて補正し、甫周の知識を超える事象についてはその旨を記している。

間違いの一例

本書では、光太夫らの記憶違いなどが明確な場合でも、まずは語ったままを記し、注釈の形で桂川甫周が正しいことを記している。たとえば年号の項目では「ロシアでは元号などがなく、ただ開国よりの年暦で年を記す。今年はロシアの暦では1793年にあたる。」という意味のことが書かれているが、注釈で「欧州諸国で用いている年暦はみな同じで、ロシアの開国を元年としているのではなく、みな耶蘇(キリスト)の降誕を元年としている。」という意味のことを書いている。もちろん甫周も気づかなかった誤りもあり、特にロシア皇室の家系の説明にそれが多く見られる。これらのことについても甫周は予測しており、巻頭の「凡例」で「外国のことはわかりにくいことが多いので、漂流民の述べたことは誤りも多いであろう。でも正誤にかかわらず今は聞いたままのことを記録する。内容の訂正は後の研究を待ちたい」という意味のことを書いている。

出典

  1. ^ a b c 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第5巻』岩波書店、1984年10月、445-446頁。 

参考文献

  • 亀井高孝校訂『北槎聞略』三秀舎、1937年11月(500部限定の豪華本・非売品)。
  • 亀井高孝・村山七郎編『北槎聞略』吉川弘文館、1965年5月 - 1937年版の復刻。新資料の発見など当時最新の研究成果を踏まえ、亀井は巻頭解説を全面改稿。巻末に村山の書き下ろし論文『大黒屋光太夫の言語学上の功績』(Ⅰ 北槎聞略のロシア語の特徴/Ⅱ ロシア語教育者としての光太夫/Ⅲ ペテルブルグに残された光太夫の伊勢方言資料)が入る。
  • 亀井高孝校訂『北槎聞略』岩波文庫、1990年10月 - 注・高野明、解説・加藤九祚
  • 宮永孝解説・訳『北槎聞略』「海外渡航記叢書1」雄松堂出版、1988年
  • 日本古典文学大辞典編集委員会編『日本古典文学大辞典』岩波書店、1983年 - 1985年。

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