ラクスマン外交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:42 UTC 版)
1783年に日本の船頭大黒屋光太夫が伊勢白子浦から江戸へ向かう航海の途上に漂流してアリューシャン列島に漂着し、一行はロシア人によって保護された。 1791年に大黒屋光太夫は女帝エカチェリーナ2世と謁見した。帰国を望んでいた光太夫は、1792年にロシア使節アダム・ラクスマンに伴われて根室に着いた。ロシアは漂着民を届けることを根拠に通商交渉を狙ったが、再度断られ、老中松平定信は周辺を巡視させた。光太夫によって伝えられたロシア事情は桂川甫周の手よって『北槎聞略』にまとめられ、幕府にとっては鎖国時代における貴重なロシア情報となった。また、海外事情に通じた林子平がロシアの日本近海進出について説く啓蒙活動を行い、長崎出島でのオランダ通詞からの情報などでロシアに関する認識が深まっていった。
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