ラクスマンに対する信牌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 01:36 UTC 版)
ロシア帝国の陸軍軍人であったアダム・ラクスマンは、大黒屋光太夫ら漂流者を日本へ送還すると同時に、日本との通商を行うことを計画した。皇帝エカチェリーナ2世の命を受けることに成功し、ロシア最初の遣日使節となり、1792年(寛政4年)9月、根室国に到着した。ラクスマンは江戸に出向いて漂流民を引き渡し、通商交渉を行なうことを希望したが、老中松平定信らは、通商を望むならば長崎に廻航させることを指示した(長崎での限定的な貿易を考慮したとも)。ラクスマンは信牌を交付されたが、目的は一応達成したとして長崎へは向かわずに帰国した。 12年後の1804年(文化元年)、ニコライ・レザノフは、ラクスマンが入手した信牌を携えて、長崎の出島に来航した。しかし、松平定信は既に失脚していたため交渉は進まず、レザノフたちは半年間出島に留め置かれることになる。翌1805年(文化2年)には長崎奉行遠山景晋から通商の拒絶を通告された。
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