遣日使節
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レザノフは、露米会社の食糧難打開や経営改善には南にある日本や清との交易が重要と考えて、遣日使節の派遣を宮廷に働きかけた。これより前の1792年に、日本人漂流民の大黒屋光太夫一行を返還する目的で通商を求めたアダム・ラクスマンと、日本の江戸幕府老中職の松平定信との間に国交樹立の約束が交わされていたが、レザノフはこの履行を求めた。彼は日本人漂流民の津太夫一行を送還する名目で、遣日使節としてロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えた正式な使節団を率いることとなり、正式な国交樹立のために通行許可証である信牌を携え、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンの世界一周航海艦隊の隊長としてペテルブルクから出航し、南米回りで太平洋を航海してハワイ王国を経て、カムチャツカ半島にあるロシアの拠点ペトロパブロフスクへ到着した。 航海中、旗艦ナジェージタ号の艦長クルーゼンシュテルンと激しく対立しつつ、レザノフは津太夫と同じ日本人漂流民の善六から日本語を学び辞書を作った。1804年(文化元年)9月に長崎の出島に来航する。交渉相手の定信は朝廷との尊号一件により老中職から失脚し、幕府は外交能力を失っており、代わりに老中土井利厚が担当した。土井から意見を求められた林述斎は、ロシアとの通商は「祖宗の法」に反するために拒絶すべきであるが、ラクスマンの時に信牌を与えた経緯がある以上、礼節をもってレザノフを説得するしかないと説いた。だが、土井はレザノフに「腹の立つような乱暴な応接をすればロシアは怒って二度と来なくなるだろう。もしもロシアがそれを理由に武力を行使しても日本の武士はいささかも後れはとらない」と主張したという(東京大学史料編纂所所蔵「大河内文書 林述斎書簡」)。その結果、レザノフたちは半年間出島近くに留め置かれることになる(当初は長崎周辺の海上で待たされ、出島付近に幕府が設営した滞在所への上陸が認められたのは来航から約2か月後だった)。この間、奉行所の検使がレザノフらのもとを訪問しており、その中には長崎奉行所に赴任していた大田南畝もいた。翌年には長崎奉行所において長崎奉行遠山景晋(遠山景元の父)から、唐山(中国)・朝鮮・琉球・紅毛(オランダ)以外の国と通信・通商の関係を持たないのが「朝廷歴世の法」で議論の余地はないとして、装備も食料も不十分のまま通商の拒絶を通告される。
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遣日使節
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「ゴローニン事件」も参照 文化10年(1813年)夏、ディアナ号艦長ピョートル・リコルド(ロシア語版)(Пётр Иванович Рикорд)からの要請により、善六は遣日使節に通訳として同行することになった。今回の遣日使節の目的は、6月にロシア側が高田屋嘉兵衛を解放した際、日本側がヴァーシリー・ゴローニン釈放の条件として、文化露寇(フヴォストフ事件)に対する公式謝罪文を用意することを提示したため、日本まで謝罪文を届けに行くことであった。 8月11日(ユリウス暦、以下同)、善六や文化8年(1811年)にロシアに漂着した久蔵を乗せたディアナ号はオホーツクを出港した。20日後には北海道を肉眼で確認できる位置まで南下し、9月10日に内浦湾に接近した。しかしここで暴風雨に遭遇し、リコルドは一旦ハワイ諸島に避難することも検討したが、暴風雨がおさまったため、9月22日に絵鞆(現北海道室蘭市)に入港した。 船が接岸すると、水先案内を命じられた日本の船がやってきたため、リコルドは水の補給を依頼する手紙を書き、これを善六が日本語に翻訳した。日本側はこれを諒承し、ディアナ号に水と食糧を分け与えた。9月26日にディアナ号は絵鞆を出発し、翌9月27日夜に箱館に到着した。入港直後には高田屋嘉兵衛(以下、「嘉兵衛」と記す)が小舟に乗ってディアナ号を訪問し、リコルドとの再会を喜び合った。 9月29日朝、嘉兵衛が再びディアナ号を訪問した時、リコルドはオホーツク長官の謝罪文を手渡した。この謝罪文は善六によって翻訳され、ロシア側の非を認めて、ゴローニンの釈放を懇願すると共に、日本との通商関係を望む内容になっていた。そして最後には、 「此書物、尾宝津賀の湊場所ノ大役人のおろしやんノことば、日本の字ニて書、通事ヲいたし二十一年、おろしやんニて役をつとめ、私日本の人の子供なり。――通事の役人 きせろふ書」 — 『飄々謾集』 と記された。 そして、10月1日(文化10年9月19日)正午、リコルドと2人の士官、10人の水兵とともに善六は20年ぶりに日本の土を踏んだ。善六は会見場に入り、リコルドの最初の挨拶を翻訳したが、以後の通訳は日本側の通詞・村上貞助が行った。ため、善六はこの会談でほとんど活躍することができなかった。 この会談の後、善六は10月5日(文化10年9月24日)にゴローニンと面会した時と、10月7日(文化10年9月26日)にゴローニンが引き渡された時にリコルドの付き添いとして上陸しているが、日本との通商交渉は今回も決裂した。そのためディアナ号はロシアに戻ることとなり、10月10日(文化10年9月29日)に箱館を出港した。なお、出港の前日にはディアナ号は満艦飾を施し、それを一目見ようと日本の見物客がディアナ号に押し寄せた。見物客は甲板に立錐の余地がなくなるほどの数で、中にはロシアの水兵とともに荷物の積み込み作業を手伝う者もいた。ディアナ号は11月3日にペトロパブロフスクに帰着した。
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