遣日使節とは? わかりやすく解説

遣日使節

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 01:44 UTC 版)

ニコライ・レザノフ」の記事における「遣日使節」の解説

レザノフは、露米会社食糧難打開経営改善には南にある日本や清との交易が重要と考えて、遣日使節の派遣宮廷働きかけた。これより前の1792年に、日本人漂流民の大黒屋光太夫一行返還する目的通商求めたアダム・ラクスマンと、日本江戸幕府老中職の松平定信との間に国交樹立約束交わされていたが、レザノフはこの履行求めた。彼は日本人漂流民の津太夫一行送還する名目で、遣日使節としてロシア皇帝アレクサンドル1世親書携えた正式な使節団率いることとなり、正式な国交樹立のために通行許可証である信牌携えアーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン世界一周航海艦隊隊長としてペテルブルクから出航し南米回り太平洋航海してハワイ王国経てカムチャツカ半島にあるロシア拠点ペトロパブロフスク到着した航海中、旗艦ナジェージタ号の艦長クルーゼンシュテルン激しく対立しつつ、レザノフ津太夫と同じ日本人漂流民の善六から日本語学び辞書作った1804年文化元年9月長崎出島来航する交渉相手定信朝廷との尊号一件により老中職から失脚し幕府外交能力失っており、代わりに老中土井利厚担当した土井から意見求められ林述斎は、ロシアとの通商は「祖宗の法」に反するために拒絶すべきであるが、ラクスマン時に信牌与えた経緯がある以上、礼節をもってレザノフ説得するしかない説いた。だが、土井レザノフに「腹の立つような乱暴な応接をすればロシア怒って二度と来なくなるだろう。もしもロシアがそれを理由武力行使して日本武士いささかも後れとらない」と主張したという(東京大学史料編纂所所蔵大河内文書 林述斎書簡」)。その結果レザノフたちは半年出島近く留め置かれることになる(当初長崎周辺海上待たされ出島付近に幕府設営した滞在所への上陸が認められたのは来航から約2か月後だった)。この間奉行所検使レザノフらのもとを訪問しており、その中には長崎奉行所赴任していた大田南畝もいた。翌年には長崎奉行所において長崎奉行遠山景晋遠山景元の父)から、唐山中国)・朝鮮琉球紅毛オランダ以外の国と通信通商の関係を持たないのが「朝廷歴世の法」で議論余地はないとして装備食料も不十分のまま通商拒絶通告される。

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遣日使節

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 13:50 UTC 版)

善六」の記事における「遣日使節」の解説

ゴローニン事件」も参照 文化10年1813年)夏、ディアナ号艦長ピョートル・リコルド(ロシア語版)(Пётр Иванович Рикорд)からの要請により、善六は遣日使節に通訳として同行することになった今回の遣日使節の目的は、6月ロシア側が高田屋嘉兵衛解放した際、日本側がヴァーシリー・ゴローニン釈放条件として、文化露寇フヴォストフ事件)に対する公式謝罪文用意することを提示したため、日本まで謝罪文届けに行くことであった8月11日ユリウス暦、以下同)、善六文化8年1811年)にロシア漂着した久蔵乗せたディアナ号オホーツク出港した20日後には北海道肉眼確認できる位置まで南下し9月10日内浦湾接近した。しかしここで暴風雨遭遇し、リコルドは一旦ハワイ諸島避難することも検討したが、暴風雨おさまったため、9月22日に絵鞆(現北海道室蘭市)に入港した。 船が接岸すると、水先案内命じられ日本の船がやってきたため、リコルドは水の補給依頼する手紙書き、これを善六日本語翻訳した日本側はこれを諒承し、ディアナ号食糧分け与えた9月26日ディアナ号は絵鞆を出発し、翌9月27日夜に箱館到着した入港直後には高田屋嘉兵衛(以下、「嘉兵衛」と記す)が小舟乗ってディアナ号訪問し、リコルドとの再会喜び合った9月29日朝、嘉兵衛が再びディアナ号訪問した時、リコルドはオホーツク長官謝罪文手渡した。この謝罪文善六によって翻訳されロシア側の非を認めてゴローニン釈放懇願すると共に日本との通商関係を望む内容になっていた。そして最後には、 「此書物、尾宝津賀の湊場所ノ大役人のおろしやんノことば、日本の字ニて書、通事ヲいたし二十一年、おろしやんニて役をつとめ、私日本の人の子供なり。――通事役人 きせろふ書」 — 『飄々謾集』 と記された。 そして、10月1日文化10年9月19日正午、リコルドと2人士官10人の水兵とともに善六20年ぶりに日本土を踏んだ善六会見場に入り、リコルドの最初挨拶翻訳したが、以後通訳日本側の通詞村上貞助が行った。ため、善六はこの会談でほとんど活躍することができなかった。 この会談の後、善六10月5日文化10年9月24日)にゴローニン面会した時と、10月7日文化10年9月26日)にゴローニン引き渡され時にリコルドの付き添いとして上陸しているが、日本との通商交渉今回決裂した。そのためディアナ号ロシアに戻ることとなり、10月10日文化10年9月29日)に箱館出港した。なお、出港前日にはディアナ号満艦飾施し、それを一目見よう日本見物客ディアナ号押し寄せた見物客甲板立錐余地がなくなるほどの数で、中にはロシア水兵とともに荷物積み込み作業手伝う者もいた。ディアナ号11月3日ペトロパブロフスク帰着した

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