遣新羅使一覧とは? わかりやすく解説

遣新羅使一覧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 05:06 UTC 版)

遣新羅使」の記事における「遣新羅使一覧」の解説

統一新羅時代のもの。なおこの一覧は最も一般的な28回説を採用している。 回派遣元号正使天皇新羅王備考出典1 668年 天智天皇7年 道守麻呂 天智天皇 文武王 吉士と共に新羅使金東厳の帰国同行両国共に白村江の戦い以降の、国交回復目的とした使節考えられる使用した船の建造記録思われるものが『播磨国風土記』にある。 日本書紀 2 670年 天智天皇9年 阿曇頬垂 天智天皇 文武王 日本書紀 3 675年 天武天皇4年7月 大伴国麻呂 天武天皇 文武王 副使三宅入石翌年2月帰国。古麻呂大伴御行や古麻呂(唐に二度渡航)の兄弟日本書紀 天武4年7月7日条 4 676年 天武天皇5年10月10日 物部麻呂石上麻呂天武天皇 文武王 小使山背百足壬申の乱敗者であった物部麻呂政治復帰となる。この頃前後して両国間に頻繁に使者が行交う11月3日入れ違い金清平らが新羅から来日23日には高麗高句麗復興をめざす亡命政権)の使者送って金楊原らが来日物部麻呂らは翌年2月1日帰国 日本書紀 5 681年 天武天皇10年 采女竹羅 天武天皇 神文王 副使当麻681年7月拝命9月出立挨拶。同じ日に佐伯広足遣高句麗使任命され同じく9月に拝朝し出立挨拶している。 日本書紀 6 684年 天武天皇13年 高向麻呂 天武天皇 神文王 4月20日拝命翌年学問僧の観常・観を伴い新羅王献上物運び帰国 日本書紀 7 687年 持統天皇元年 田中法麻呂 持統天皇 神文王 副使に守苅田天武天皇の喪を伝達するために派遣されるも、新羅孝徳天皇崩御の際より格下扱いを受けそうになったため詔を渡さず689年正月帰国日本書紀 8 692年 持統天皇6年11月8日 息長老 持統天皇 孝昭王 日本書紀 9 695年 持統天皇9年7月 小野毛野 持統天皇 孝昭王 副使大弐伊吉博徳 日本書紀 持統9年7月26日条・9月6日698年 文武天皇2年 不明 文武天皇 孝昭王三国史記によれば日本国からの初の使者3月来て、王は崇礼殿で引見したというが、日本側の記録は無い。 三国史記 新羅本紀 孝昭王7年3月10 700年 文武天皇4年5月 佐伯麻呂 文武天皇 孝昭王 10月帰国し孔雀その他の珍物持ち帰る続日本紀 文武4年10月19日11 703年 大宝3年 波多広足 文武天皇 聖徳王慶雲元年704年8月帰国続日本紀 12 704年 慶雲元年 幡文通 文武天皇 聖徳王 慶雲元年704年10月拝命翌年5月新羅より帰国 続日本紀 13 706年 慶雲3年 美努浄麻呂 文武天皇 聖徳王 8月任命副使対馬堅石。翌慶雲4年707年義法留学学問僧伴い帰国 続日本紀 14 712年 和銅5年9月 道首名 元明天皇 聖徳王 10月に王に辞見翌年8月帰還 続日本紀 和銅6年8月10日15 718年 養老2年 小野馬養 元正天皇 聖徳王 9回の小野毛野の弟。養老2年3月20日に任ぜられ、翌養老3年719年2月帰国した3月には丹波守、丹後但馬因幡国按察使に任ぜられ同地派遣続日本紀 養老3年2月10日16 719年 養老3年 白猪広成葛井広成元正天皇 聖徳王 7月11日任じられる。翌養老4年720年5月10日一族と共に白猪史から葛井連改姓しているため、それ以前帰国続日本紀 17 722年 養老6年 津主治麻呂 元正天皇 聖徳王 続日本紀 18 724年 神亀元年 土師豊麻呂 聖武天皇 聖徳王 続日本紀 19 732年 天平4年 角家主 聖武天皇 聖徳王 続日本紀 20 736年 天平8年 阿倍継麻呂 聖武天皇 聖徳王 前年新羅使が、国号を「王城国」と改称した告知したため、日本無断国号改称したことを責め使者追い返している。阿倍らは新羅へ渡るも外交使節として待遇受けられず。新羅の「欠常礼」を奏上。なお使節の翌天平9年737年)の帰国同時に都に疫病流行以降しばらくは新羅から日本への使者大宰府止まりで、入京を許さなかった。大使の継麻呂帰国途中対馬国疫病のため1月客死次男随行しており、継麻呂次男渡航中の和歌『万葉集』収録されている。 続日本紀万葉集(巻十五21 740年 天平12年 紀比登 聖武天皇 孝成王 3月任命同年10月には日本帰還続日本紀 742年 天平14年不詳聖武天皇 景徳王不納」(新羅側受拒否)(『三国史記』) 三国史記 22 752年 天平勝宝4年 山口人麻呂 孝謙天皇 景徳王 (王と会わず帰国か?) 続日本紀 天平勝宝4年正月25日23 753年 天平勝宝5年 小野田守 孝謙天皇 景徳王 新羅で失礼を受けたためそのまま帰国。唐での同年正月参賀の際の席次争い影響か?「日本国使至。慢而無礼。王不見之。乃廻。」(『三国史記』)。この数年後新羅征伐計画立案されるが政情により頓挫小野田守はのち遣渤海大使をも勤める。 続日本紀 天平宝字4年9月16日24 779年 宝亀10年 下道長人大宰少監光仁天皇 恵恭王 2月任命済州島捕らわれていた遣唐判官海上三狩一行迎えるため緊急派遣。この頃新羅国内内戦に近い混乱状態であり、同年新羅日本への服属象徴する御調(みつき)を携え使者派遣新羅からの難民亡命者多数押し寄せ日本はこれら「蛮国人民」を受け入れている。下道長人らは三狩らを率いて7月には無事に大宰府帰国続日本紀 宝亀10年7月10日25 799年 延暦18年4月 大伴峰麻呂 桓武天皇 昭聖王 4月任命5月遣新羅使派遣中止)。 /日本後紀 延暦18年4月16日条・5月29日26 803年 延暦22年3月 斎部浜成忌部浜成) 桓武天皇 哀荘王18遣唐使派遣先立って、唐の消息調査3月16日任命7月渡航渡航先立ち浜成は同3月に「忌部」から「斎部」に改姓。 /日本後紀逸文(『古語拾遺識語27 804年 延暦23年9月 大伴峰麻呂(岑萬里桓武天皇 哀荘王18遣唐使船の内、往路行方不明となった2隻の消息調査 /日本後紀 延暦23年9月18日28 836年 承和3年8月 紀三津 仁明天皇 興徳王 新羅対し当時難航していた約30年ぶりの遣唐使船の往復航路における、新羅漂着時の救助送還を行うよう告諭8月大宰府出立10月三津大宰府帰還12月朝廷に対して報告するが、三津失態新羅非礼発覚以降新羅に対して使節停止された。 /続日本後紀 承和3年8月25日条・12月3日

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