興徳王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/08 15:50 UTC 版)
興徳王(こうとくおう、777年 - 836年)は、新羅の第42代の王(在位:826年 - 836年)であり、姓は金、諱は秀宗[1]、のちに景徽(けいき)と改名した[2]。父は第38代元聖王の元太子の金仁謙(昭聖王により恵忠大王と追封)、母は角干(1等官)の金神述の娘の淑貞夫人(聖穆太后と追封)であり、第39代昭聖王・第41代憲徳王の同母弟である。王妃は昭聖王の娘の章和夫人[3]。826年10月、先代の憲徳王が死去すると、副君の位にあった秀昇が即位した。
- ^ 『三国史記』新羅本紀・憲徳王紀においては分注で秀升とも記されている。
- ^ 『三国遺事』王暦では諱は景暉(けいき)と記される。景徽・景暉は同音(경휘)。
- ^ 『三国遺事』王暦では、昌花夫人とする。章和(장화)・昌花(창화)は音通する。
- ^ 井上訳注1980 p.356. 注54,55.
- ^ a b 『旧唐書』巻二百十一・新羅伝「(太和)五年(831年)、金彦升卒。以嗣子金景徽為開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督・鶏林州諸軍事・兼持節充寧海軍使・新羅王。」
- ^ 『新唐書』巻二百三十六・新羅伝「長慶・宝暦間(821年 - 827年)、再遣使者来朝、留宿衛。彦升死、子景徽立。」
- ^ 王母・王妃いずれも金氏であるが、同姓不婚の唐制を考慮して、対外的には姻族の姓を朴氏とする慣習ができていたと見られている。→井上1972 p.235。哀荘王・憲徳王の脚注も参照。
- ^ 『三国史記』巻三十三・雑志二・色服条
固有名詞の分類
- 興徳王のページへのリンク