憲康王とは? わかりやすく解説

憲康王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/15 09:12 UTC 版)

憲康王(けんこうおう、生年不詳 - 886年8月8日)は、新羅の第49代の王(在位 : 875年 - 886年)であり、姓は金、は晸(ちょう)。先代の景文王の長男であり、母は第47代憲安王の娘の文懿王后[1]。王妃は義明夫人[2]。一人の娘の義成王后は第53代神徳王の王妃。もう一人の娘の桂娥太后は第56代敬順王の母。


  1. ^ 三国遺事』王暦では、文資王后とされる。
  2. ^ 王妃についての姓は伝えておらず、『三国遺事』王暦では名を義明王后とする。『三国史記』新羅本紀・孝恭王紀では憲康王の庶子の孝恭王が母の金氏を義明王太后としたと伝えている(新羅本紀・孝恭王紀 二年春正月条)。
  3. ^ これらの日本の使者の訪問について、日本側の史料には対応する記事は見られない。869年に新羅の海賊船が博多を襲って以来、新羅と日本との間には緊張関係が生じており(新羅の入寇#貞観の入寇を参照)、『日本三代実録元慶4年(880年)条によれば、新羅の賊が侵入するという情報を得た日本海沿岸の諸国は厳重な警戒態勢をとっていたという。しかしその間にも、公私にわたる使者の往来はあったものと見られている。→井上訳注 p.386 注24、p.387 注29
  4. ^ 次代の定康王もまた菩提寺の東南に埋葬されたといい、史跡第187号(憲康王陵)と並ぶ史跡第186号が定康王陵に比定されている。
  5. ^ 金思燁は、この処容について「竜の顔」の転写であり、竜の子が舞った舞に用いられた仮面が竜の顔であることを示したものとする。→金思燁訳1997 p.158 注1
  6. ^ 蔚山広域市公式サイト#山/お寺(日本語)の「望海寺祉(ママ)」のリンク先参照。


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