伐休尼師今とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 伐休尼師今の意味・解説 

伐休尼師今

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/28 01:26 UTC 版)

伐休尼師今
新羅
第9代国王
王朝 新羅
在位期間 184年 - 196年
生年 不詳
没年 196年4月
昔仇鄒
只珍内礼夫人
テンプレートを表示
伐休尼師今
各種表記
ハングル 벌휴 이사금
漢字 伐休尼師今
発音: ボルヒュ・イサグム
(ボリュ・イサグム)
日本語読み: ばっきゅう・にしきん
ローマ字 Beolhyu Isageum
テンプレートを表示

伐休尼師今(ばっきゅう にしきん、生年不詳 - 196年4月)は、新羅の第9代の王(在位:184年 - 196年)であり、姓は昔。父は第4代の脱解尼師今の子の仇鄒角干、母は金氏の只珍内礼夫人。

治世

184年3月に先代の阿達羅尼師今が死去したときに嗣子がいなかったため[1]、国人に推挙されて即位した。185年に初めて軍主の制度を設け、波珍飡(4等官)の金仇道[2]一吉飡(7等官)の金仇須兮を任命し、召文国(慶尚北道義城郡)を討伐させた。この後、百済との交戦が激化し、188年2月には百済から母山城(忠清北道鎮川郡[3]を攻められ、金仇道がこれを撃退した。189年には金仇道が狗壌(忠清北道沃川郡)で百済と戦って勝利を収めた。さらに190年8月、百済は円山郷(慶尚北道醴泉郡[4]に攻め入り、缶谷城を包囲した。このときに金仇道は騎兵500を率いて反撃し、蛙山まで出撃したが百済軍に敗れることとなった。[5]

193年6月には倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1千余人が新羅に流入したという。

在位13年にして196年4月に死去した。埋葬地は伝わらない。

脚注

  1. ^ 三国史記』新羅本紀・神徳王即位前紀では、第51代の神徳王を阿達羅尼師今の遠孫としている。このことについては神話の造作であったり王統系譜の造作であり、史実として論じるべき問題ではないと指摘されている。(→井上訳注1980)
  2. ^ 金仇道は金閼智の6世孫であり、後の13代味鄒尼師今の父に当たる。
  3. ^ 母山城については他に忠清北道陰城郡とする説、全羅北道南原市雲峰邑とする説もある。
  4. ^ 円山郷については忠清北道鎮川郡とする説もある。また、新羅時代には地方名に○○郷とする事例はほとんどない、とされる。(→井上訳注1980)
  5. ^ この敗戦の責任を問われ、金仇道は軍主の地位を退けられ、缶谷城の城主とさせられた。もともと城主というのは地方の有力者を指すものであったが、中央から城主として赴任する例は稀であるとされる(→井上訳注1980)

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「伐休尼師今」の関連用語

伐休尼師今のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



伐休尼師今のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの伐休尼師今 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS