伏野原の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/07 14:02 UTC 版)
| 伏野原の戦い | |
|---|---|
| 戦争:伏野原の戦い | |
| 年月日:天文5年12月6日(1537年1月17日) | |
| 場所:薩摩国萩別府伏野原 | |
| 結果:島津軍の勝利 石谷梅久らの戦死 | |
| 交戦勢力 | |
| 島津軍(出水) | 石谷軍 | 
| 指導者・指揮官 | |
| 島津実久 | 石谷梅久 | 
| 戦力 | |
| 1000以上[1] | 約300 | 
| 損害 | |
| 不明 | 不明 | 
伏野原の戦い(ふせのんはいのたたかい)は、戦国時代の天文5年(1536年)12月6日~7日(旧暦)に、薩摩国萩別府伏野原(現在の鹿児島市石谷町と犬迫町の境界付近)において行われた野戦である。
概要
天文5年、梅久の子である石谷忠栄は島津忠良(日新斎)・島津貴久親子の呼びかけに応じて、反・実久の兵を石谷城で挙げた[2]。
これに対し、天文5年12月、当時の出水城主島津実久は、1000騎以上の兵を率いて横井(現在の鹿児島市犬迫町横井地区)に本陣を構え、石谷城制圧を試みた。この報告を受けた石谷梅久は、反撃のため兵約300騎を率いて12月6日に鹿児島を出発し、途中伊敷を経由して同日午後6時頃に横井村に到着した[2]。
同日の深夜、伏野原(ふせのんはい)において野戦が始まったが、そもそも兵力に3倍以上の差がある上、島津軍が伏兵を敷いていたために、石谷軍は敗北、翌12月7日の明け方に梅久も戦死した[2]。
石谷氏は島津忠良(日新斎)より伏野原の戦いでの功をたたえられ、石谷の他に土橋(現在の日置市伊集院町土橋)の町田の領有を認められ、神殿の加増を許されたとされる[3]。
脚注
 
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