南北朝期の争乱と町田氏による支配
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「石谷町 (鹿児島市)」の記事における「南北朝期の争乱と町田氏による支配」の解説
南北朝時代には薩摩国伊集院のうちの石谷村であった。 南北朝分裂の際、石谷を領していた石谷氏が北朝方に加担し、南朝方には伊集院氏が加担していた。伊集院氏を首領とする伊集院地区の南朝方軍団の勢力拡大により、伊集院、郡山、日置一帯が伊集院氏の統治下となった、南北朝期以後石谷の地は伊集院氏の統治下にあった。その後伊集院頼久の乱で対立していた久豊と伊集院頼久が和解し、その条件として頼久の娘(熙久の姉)が久豊に嫁いだ際、伊集院氏側から石谷村が化粧料として贈られ、それまで伊集院領であった石谷は島津本家の直轄地となった。その後島津久豊が死去、子の島津忠国が守護の地位を継ぐと、当地は町田高久(石谷氏)に与えられた。 町田高久に石谷が与えられたころには既に久豊も煕久の姉も亡くなっており、旧来の領地である石谷が町田氏に与えられたことに不満を覚えた煕久は、宝徳元年(1449年)に石谷高久(町田高久)を居城の一宇治城(現在の日置市伊集院町大田に所在)に招き彼を殺害し、石谷の地を得た。 その後石谷高久の子頼本がこのことを島津忠国に訴えたと島津国史に記してある。宝徳2年に島津忠国は伊集院煕久を攻撃し、これにより煕久は肥後に逃亡したため伊集院氏による支配が終わり、石谷の地は再び石谷氏に与えられた。 「伊集院頼久の乱」も参照 天文5年に頼本の子孫石谷忠栄は島津日新・貴久父子に内応し、石谷城に兵を挙げたが島津実久の軍に敗れ、忠栄の父梅久は戦死し、忠栄は伊集院の貴久の元に行った(伏野原の戦い)。翌年の天文6年に貴久の軍は実久の将であった肥後助西を殺害し、福山塁の敵も城を棄て去った為石谷は再び忠栄の元に戻り、忠栄は石谷姓より町田姓に復帰し、以後町田氏が治めた。
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