南北朝時代~戦国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 10:13 UTC 版)
南北朝期、肝付宗家は南朝方に与して島津氏と雌雄を争った。この時、梅北氏も南朝方に味方したために、足利尊氏が西下した際、梅北城は尊氏方の畠山直顕の有に帰したが、梅北氏はその後も勢力を保持していた。 戦国期に至り、薩摩の戦国大名島津氏は、天文(1532~1555年)末年のころより、薩隅日に割拠する国衆らを合戦で倒し、かれらの所領に家臣を地頭として配置していった。さらに、一時的には国衆に与えた所領も、機をみて取り上げ、島津氏の直轄地とし、外城を設け地頭を設置することがあった。その結果、島津氏は薩隅日の領国に、多数の地頭を配置することとなった。天正8年(1580年)の相良義陽討伐のために、島津氏が領国の全軍に令した動員は「薩隅日三州勢」であった。『肥後水俣陣立日記』には、国別び「諸城外地頭衆」の名が記されている。そのなかの薩摩領の一人として梅北国兼は湯尾地頭としてみえている。
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