南北朝正閏問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:11 UTC 版)
明治維新によって北朝正統論を奉じてきた公家による朝廷から南朝正統論の影響を受けてきた維新志士たちによる明治政府に皇室祭祀の主導権が移されると、旧来の皇室祭祀の在り方に対する批判が現れた。これに伴い、1869年(明治2年)の鎌倉宮創建をはじめとする南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが行われるようになった。また、1877年(明治10年)、当時の元老院が『本朝皇胤紹運録』に代わるものとして作成された『纂輯御系図』では北朝に代わって南朝の天皇が歴代に加えられ、続いて1883年(明治16年)に右大臣岩倉具視・参議山縣有朋主導で編纂された『大政紀要』では、北朝の天皇は「天皇」号を用いず「帝」号を用いている。なお、1891年(明治24年)に皇統譜の書式を定めた際に、宮内大臣から北朝の天皇は後亀山天皇の後に記述することについて勅裁を仰ぎ、認められたとされている(喜田貞吉『還暦記念六十年之回顧』)。ただし、これらの決定過程については不明な部分が多い。また、こうした決定の効果は宮中内に限定されていた。 一方、歴史学界では、南北朝時代に関して『太平記』の記述を他の史書や日記などの資料と比較する実証的な研究がされ、これに基づいて1903年(明治36年)及び1909年(同42年)の小学校で使用されている国定教科書改訂においては南北両朝は並立していたものとして書かれていた。ところが、1910年(同43年)の教師用教科書改訂にあたって問題化し始め、大逆事件の秘密裁判での幸徳秋水の発言が、これに拍車をかけた。 当初、首相の桂太郎は「情意投合」の関係にあった立憲政友会の原敬に「学者の説は自在に任せ置く考なり」と言ったといい(『原敬日記』)、政治的な介入は行わない意向だった。政治問題化の火付け役となったのは読売新聞で、1911年(明治44年)1月19日付の社説で「もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし。何ぞ文部省側の主張の如く一時の変態として之を看過するを得んや」「日本帝国に於て真に人格の判定を為すの標準は知識徳行の優劣より先づ国民的情操、即ち大義名分の明否如何に在り。今日の多く個人主義の日に発達し、ニヒリストさへ輩出する時代に於ては特に緊要重大にして欠くべからず」と主張した。 さらに、政府と対立する姿勢を鮮明とする犬養毅率いる野党立憲国民党がこの問題を利用して第2次桂内閣の糾弾・打倒を図ったことで、南北朝のどちらの皇統が正統であるかを巡る帝国議会での政治論争にまで発展した(南北朝正閏問題)。1911年(明治44年)2月には衆議院議員の藤澤元造がこの問題を追及する質問主意書を提出。藤澤は議員辞職に追い込まれたものの、政府は野党の懐柔工作に失敗して窮地に追い込まれる。桂の後見役である元老・山縣有朋が南朝正統論の立場で動いたことで、政府は野党や世論に押される形で教科書改訂を約束し、教科書執筆責任者である喜田貞吉を休職処分とした。最終的には『大日本史』の記述を根拠に、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}明治天皇の裁断で[要出典]三種の神器を所有していた南朝が正統であるとされ、南北朝時代は南朝が吉野にあったことにちなんで「吉野朝時代」と呼ばれることとなった。それでも、田中義成などの一部の学者は「吉野朝」の表記に対して抗議している。 以後、戦前の皇国史観のもとでは、足利尊氏を天皇に背いた逆賊・大悪人、楠木正成や新田義貞を忠臣とするイデオロギー的な解釈が主流になる。1934年(昭和9年)には斎藤内閣の中島久万吉商工相(政友会)が尊氏を再評価した雑誌論説「足利尊氏論」(13年前に同人誌に発表したものが本人に無断で転載された)について大臣の言説としてふさわしくないとの非難が起こり、衆議院の答弁で中島本人が陳謝していったん収束した。しかし貴族院で菊池武夫議員が再びこの問題を蒸し返し、齋藤實首相に中島の罷免を迫った。これと連動して右翼による中島攻撃が激化し、批判の投書が宮内省に殺到したため、中島は辞任のやむなきに至った(詳細は中島久万吉参照)。この事件の背景にはのちの天皇機関説事件につながる軍部・右翼の政党勢力圧迫があったとされる。
※この「南北朝正閏問題」の解説は、「南北朝正閏論」の解説の一部です。
「南北朝正閏問題」を含む「南北朝正閏論」の記事については、「南北朝正閏論」の概要を参照ください。
- 南北朝正閏問題のページへのリンク