明治末期の国体問題
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日本が日露戦争に勝利したのち国体論が盛り上がる時期にあって、国体の問題に関して国民の思想を刺激する事件がおきる。1910年(明治43年)の大逆事件と1911年(明治44年)南北朝正閏問題である。 幸徳秋水ら無政府主義者が天皇暗殺を準備したとされる大逆事件は、それまで国民が夢想すらしなかった大不祥事といわれ、その突発に人々は愕然として、識者は日本の国体を宣明にしなければならないと思い立ち、国体に関する研究が更に盛り上がりを見せる。井上哲次郎が設立していた東亜協会を中心に国体研究会を設けたのも大逆事件の影響であったといわれる。国体研究会の講演は機関誌『東亜之光』に連載される。 山田孝雄が国体論に手を染めたきっかけは大逆事件であったという。山田孝雄は後に文部省『国体の本義』の起草にも関わる著名な国語学・文法学者である。大逆事件に関する報道が解禁された当日、山田孝雄は「深く心に感ずるところあり」として、即日筆を執り、身体論的国家観にもとづく一書を一週日のうちに完成し、これを『大日本国体概論』と題して出版する。同書に「国体は国の体なり。喩えば、人の体あるが如し。人とは何か。之を物理学的に見れば、一個の有機体なり。之を科学的に見れば、各種元素の組織体なり。之を生理学的に見れば、幾多の細胞の組織せる有機体なり」という。ここに見られる類比的思考は西欧で広範に見られる<自然>な身体をモデルにした国家有機体説であった。時事新報が「ペストやコレラの病毒の如き」「無政府共産主義の如きものゝ伝来に接し仮初にも之に感染するの偏狂」と表現し、井上哲次郎が「破壊思想の源流」と題して「病気で衰弱した身体にバチルスの入り易い様に毒は直ちに食ひ込んだ」「日露戦後の世間が疲弊した弱身にくひ込んだ病気である」と記し、有機的な国家身体から排除される側であった幸徳秋水ですら「所謂愛国心は実に之が病菌たり、所謂軍国主義は実に之が伝染の媒介たる」ゆえ「愛国的病菌は朝夜上下に蔓延し、帝国主義的ペストは世界列国に伝染し、二十世紀の文明を破毀し尽さずんば已まざらんとす」と同様の比喩を用いた。このように<隠喩としての病>は猛威を振るっていた。国家が有機体として想像される時代にあって、山田孝雄はその空気を吸いながら最初の国体論を書いたのだった。 南北朝正閏問題は大逆事件発覚の直後に帝国議会で起こり、国体に関する一大議論を惹起する。南北朝正閏論については、明治時代には大日本史と同じく南朝正統を認めるものが多く、中には南北朝対立説を採るものもあったが特に問題とならずに済んでいた。問題の発端は、国定教科書における南北朝対立に関する編者の所見である。文部省は尋常小学校日本歴史に南北両朝を同等に認め、その教師用参考書に「容易にその間に正閏軽重を論ずべきにあらざるなり」と明記していた。これが皇統一系の国体に反するという理由で一部の小学校教師を激昂させ、やがて新聞記者を動かし、1911年(明治44年)1月19日発行の読売新聞で報じられる。これを読んだ早稲田大学教師の松平康國と牧野謙次郎が善後策を講じ、衆議院議員藤澤元造から帝国議会の質問案として提出することを謀る。藤澤元造は2月16日に質問演説に立つことになるが、政府は百方手を尽くして彼を翻意させ議員辞職に追い込む。 ここに世論が興起する。まず水戸市の教育会が運動を起こし、2月18日に同会長菊池謙二郎から文部大臣に建議書を提出する。建議書に「大日本史が南北朝正閏論を唱道せし以来、これに関する国民の倫理思想は一定し、南朝方の将士は当然忠誠の士にして北朝方の将士は佞姦の輩なりと固く信じて疑わざるところなり」、「もし大日本史の正閏論に誤謬ありて、これに準拠せり倫理思想は大害を生ずるものとせば、これを変改するは正当の業なりといども、正閏論は、国体の上より見るも、史実の上より見るも、また教育の上より見るも、錯誤なきのみならず正当の説なり。いやんや明治三十三年十一月十六日大日本史の撰者たる徳川光圀卿に正一位を追贈せられし時、詔をもって光圀が皇統を正閏し人臣を是非せしことを是認して称美し給いしに於いてをや」という。 また2月21日には国民党が大逆事件ならびに南北朝正閏論に関する決議案を衆議院に提出する。この決議案では、大逆事件について「彼がごとき狂豎を出し、もって国体の尊厳を汚瀆する」と断じ、さらに国定教科書について「万世一系の皇祚に対し奉り、敢えて濫りに正閏なしとの妄説を容る」ものとして批判する。衆議院では犬養毅が問責演説に立つが、これは秘密会とされる。3月、貴族院では伯爵徳川達孝や男爵高木兼寛が文部大臣に質問を試み、衆議院では国民党代議士村松恒一郎が質問書を提出する。質問書に「政府、既にその非を認めて教科書の改正に着手したる以上、過去一年間忠奸正邪の別を紊り、国民の思想の動揺を惹起し、国体の基礎を危うくせんとしたるに対し、内閣はなぜ速やかに処決してその責任を明らかにせざるか」と問責する。 この間、大日本国体擁護団なるものが設立され主意書を発表する。3月に国体擁護団は解散し、友声会を結成する。このほか弘道会や丁酉倫理会などがそれぞれ活動し、また新聞雑誌に議論が縦横に出るなどして非常に混乱する。学者も真面目にこの問題を論じるに至り、結局は南朝正統論に決し、責任者である文学博士喜田貞吉を休職処分にし、国定教科書も改訂することになる。5月には史学会より論文集『南北朝正閏論』が出る。6月には文部省が南北朝を吉野朝に改めて教科書を改訂し、問題が決着する。7月には友声会が論文集『正閏断案 国体之擁護』を公刊し、南朝正統を宣揚する。この後も学者たちは、続々と論説を発表し、各種団体を作って南朝正統説を唱える。 南北朝正閏論の主な論者として次の学者を挙げることができる。 南北朝対立説は、喜田貞吉、三上参次、久米邦武など。 北朝正統説は、吉田東伍、浮田和民など。 南朝正統説は、牧野謙次郎、松平康國、穂積八束、井上哲次郎、猪狩史山、笹川臨風、黒板勝美、菊池謙二郎、福本日南、副島義一、姉崎正治、三浦周行など。 国体に関連にさせて南北朝を正閏を論じたものとして例えば以下のものがある。いずれも南朝正統説である。 万朝報は「南朝北朝正閏論」という記事を三回連載し、この問題は国体に関することが最も深く、もし皇位が二つあるとすれば国体は国体を為さない、などと論じる。 井上哲次郎は「国体上より南朝の正統なるを論ず」という記事などにおいて次のように論じる。曰く、南北朝問題を解決するには国体の立場から見る必要がある。国体は主権の所在により定まる。日本では主権は常に皇位にあり、この国体は万世不易である。しかし過去において一度だけ変がある。すなわち南北朝時代に皇統が二系あったことである。これは史実であるが、国民道徳の立場からはこれを対立と見てはならない。日本では国民道徳の基礎は永遠不変である。なぜならば、国民道徳は国体より出て、国体の基礎は万世一系の皇統であり、この国体が永久不変である以上は国民道徳の基礎も動揺するわけがないからである、と。 姉崎正治は『南北朝問題と国体の大義』を著して、歴史家は社会名教上に及ぼす影響を考慮しなければならず、国体の大本が建国とともに定まっている以上、南北朝問題もこれに準拠して解決すべきであることを説く。 松平康国は『正閏断案 国体之擁護』所載の論文「史学の趨勢と国体観」において、歴史教育は国体観念の養成に最も重大に関係するから史家は慎重な用意を要すると論じる。 1911年(明治44年)8月、清水梁山という人物が『日本の国体と日蓮上人』を著す。内務省神社局 (1921) によれば同書は「日蓮の国体論なるものを捻出し、牽強附会、もって我が国体と日蓮宗とを結びつけんとせり。その論ずるところ奇怪、ほとんど説くに足らざるものなれど、かくしてまで我が国体と関連を保たんとするところに、当時の思潮を見るべきなり」という。 同年12月には高楠順次郎が『国民道徳の根底』を著し、日本の国体と先祖崇拝の関係を説く。 1912年(明治45年)、加藤玄智が『我建国思想の本義』を著し、祭政一致の肇国主義が日本の国体であると論じて曰く、日本は祭政一致の国柄であり、建国当初は祭政一致をもって成立した。他にも祭政一致の国は数多いが、どれも国民と神とが一定の契約によって保護・被保護の関係を結ぶものであって、日本のように実際の血縁関係にあるものではない。これが日本の国体が特殊である理由である。そして国民一般は、現在の天皇をその神の延長と見做し、いわゆる現人神と信奉する。これが国体の精華であり、万世に益々国家が栄える理由である、と。 同年、丸山正彦(丸山作楽の養子の国学者)が『大日本は神国也』を著して、日本は神聖が基を開き、神孫が継承し、ついに金甌無欠の国体を成立させたので、その神祇の威徳を崇敬することは国体を擁護する所以であると論じる。
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