明治期以降の石見銀山と終末
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 02:16 UTC 版)
「石見銀山」の記事における「明治期以降の石見銀山と終末」の解説
石見銀山は1868年(明治元年)の太政官布告による民間払い下げにより田中義太郎が経営権を取得したものの、1872年(明治5年)の浜田地震の被害を受けてしばらく休山となった(1873年(明治6年)頃に松江市の安達惣右衛門が別の鉱区を経営していたともいわれるが記録が少なく詳細についてはわかっていない。)。その後、1886年(明治19年)からは大阪の藤田組(後に同和鉱業から現在はDOWAホールディングス)により再開発の試みが続けられた。藤田組は採鉱施設・事務所などを大森から柑子谷(仁摩町大国)の「永久鉱山」に移したが、その頃主に採掘されていた銅の価格の暴落や坑内の環境の悪化などにより1923年(大正12年)には休山するに至った。その後、日中戦争、太平洋戦争の最中、軍需物資としての銅の国産化を目論んで、1941年(昭和16年)より銅の再産出を試みるものの、1943年(昭和18年)の水害で坑道が水没する打撃を受け、完全閉山となる。鉱業権はDOWAホールディングスが保有している。DOWAホールディングスは大久保間歩周囲などでボーリング調査を実施したが、採算が取れる鉱脈は無いと判断され採鉱は実施されていない。2006年鉱業権がDOWAホールディングスから島根県に譲与された。
※この「明治期以降の石見銀山と終末」の解説は、「石見銀山」の解説の一部です。
「明治期以降の石見銀山と終末」を含む「石見銀山」の記事については、「石見銀山」の概要を参照ください。
- 明治期以降の石見銀山と終末のページへのリンク