明治末〜大正中期 探検登山と積雪期登山・海外登山の幕開け/会員たちの活躍
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日本山岳会設立の前後から大正の初期ごろまでは「探検登山の時代」と呼ばれ、日本社会の中にアルピニズム的な登山熱が高まり、多くの登山家たちが国内の高峰を目指した。この時期、国内の高峰はほとんど登られ、「日本アルプス探検の黄金時代」) とされる。1909年(明治42年)夏には、吉田孫四郎(日本山岳会会員)らによる剱岳登山が行われた。これは登山だけを目的とした初の剱岳登頂であった。ほかにもこの年の夏には、鵜殿正雄(日本山岳会会員)の穂高岳・槍ヶ岳初縦走、小島烏水、高頭仁兵衛らの赤石山脈縦横断など日本の登山史上、画期的な記録が残されている。同年、これまでの「山岳会」という名称を改め、「日本山岳会」となった。 1911年(明治44年)にはオーストリアのレルヒ少佐によって本格的なスキー術が紹介され、急速に広まった。スキーの普及は、これまでほとんど無雪期に限定されていた日本の登山を積雪期までに広げていくことになる。1919年(大正8年)〜21年(大正10年)にかけては本格的な海外登山が試みられた時代であった。加賀正太郎、鹿子木員信、辻村伊助(いずれも日本山岳会会員)らはすでに明治末期から大正初期にかけてヨーロッパ・アルプスに直に触れ、その紀行報告が日本の登山家たちに大きな刺激を与えていた。1921年(大正10年)、槇有恒(まき ゆうこう/ありつね)(4代・7代会長)のアイガー東山稜の初登攀の快挙は、日本人の登山熱をさらに高めることになった。これと相前後して、槍ヶ岳の北鎌尾根、前穂高岳北尾根、北穂高岳滝谷、剱岳八ッ峰などの北アルプスの険しい岩場が次々と初登攀された。加えて積雪期・厳冬期の登山も本格化して北アルプスの峰々が相次いで登られた。
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