明治期以降の典侍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 03:53 UTC 版)
幕末まで公家の子女によって占有され、天皇に近侍することで宮廷で絶大な権勢を誇るようになっていた典侍をはじめとする女官であるが、明治新政府によって大改革が行われた。まず孝明天皇の典侍として宮中で1、2の権力を誇っていた典侍の広橋静子と高野房子を「其の権勢自ら後宮を圧し、皇后の懿旨と雖も行わざること往々あり」として罷免した。次に天皇の下に置かれていた典侍以下全ての女官を皇后の下に統一して移し、武家・華族の子女からも採用されるようになった。さらに后妃および女官の官職が整理され、再び典侍の上に尚侍が置かれたが、実質的に欠員のままであった。典侍はすべて典侍か権典侍とされ、大典侍や勾当内侍の職は廃された。また、明治時代、典侍や掌侍には、2文字の植物の候名とされた。例えば、柳原愛子は早蕨典侍、園祥子は小菊典侍といった。 採用基準は江戸末期までの身分制度に大きく依存し、大正初期の「宮城女官採用内規」には典侍、権典侍などの宮中上級女官の採用には「旧堂上旧諸侯華族子女のうちより選抜」とあり、華族であっても明治維新前の公家や大名家から選ぶことになっていた(ただし下級女官については能力によって、華族出身でなくても1代に限り出仕することが許されていた。その代表が岸田俊子、下田歌子である)。明治期における典侍の俸給は250円(当時の小学校教員の初任給は8円)、権典侍は200円であった。 明治時代、明治天皇と皇后美子との間に子女が生まれなかったこともあり、数人の典侍・権典侍が側室の役割を持った。天皇の生母となった最後の典侍は大正天皇の母・柳原愛子である。なお、皇后の行啓の供奉などの公式の場に出られるのは、お清の典侍・権典侍だけであった。また、英照皇太后の青山御所に仕える典侍も、お清であった。
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