幕末まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 07:44 UTC 版)
御後園の管理には専門の奉行職が設けられて徹底した管理が行われ、園内は時の藩主の好みによってところどころ変えられていった。また、当初の園内は綱政が田園風景を好んでいたため、田んぼや畑が多く配置されていたが、1771年(明和8年)に藩が財政難に見舞われ、藩主・池田治政が経費節減のために芝生を植えさせ、次第に現在のような景観に変化していった。 御後園には藩主が岡山在城中に休息のために度々訪れていたが、幕府が大名の生活を厳しく監視していたため、他藩の藩主や客人等が岡山に来訪した時には御後園は用いられず、すべて岡山城内で接待していた。御後園で岡山藩主が客人らをもてなすようになったのは、幕府の力が衰えた幕末になってからで、1830年(天保元年)と1838年(天保9年)に9代藩主・池田斉敏が実の父親で薩摩藩主であった島津斉興をもてなした記録がある。また、日を定めて藩内の人々を対象に園内の公開が行われていた。
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