奉行職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 06:51 UTC 版)
町奉行は寺社奉行・勘定奉行とあわせて三奉行と称された。町奉行は地方官とされたが他の二奉行と同様に評定所一座の一員でもあった。 基本的に定員は2人。それぞれ北町奉行所と南町奉行所を司ったが、月番制であり南北に管轄を分けていたわけではない。任期の定めはない。ごく初期には大名が任命されていたが、後には旗本が任命された。旗本の町奉行の石高は3000石程度であった。 町奉行は旗本が就く役職としては最高のもの(格式は大目付の方が高い)で、目付から遠国奉行・勘定奉行等を経て司法・民政・財政などの経験を積んだ者が任命された。特に目付を経験していることが重要視された。 町奉行は江戸の民政を担当する役職で、その管轄下において、町触という法令を出すとともに行政権や裁判権を有した。 その職務は四つ時(午前10時頃)には江戸城に登城し、老中等への報告や打ち合わせ、他の役職者との公用文書の交換等を行い、午後は奉行所で決裁や裁判を行なうと云うもので、江戸の町人地の司法・行政・治安維持を一手に担う役職であったため職務は多忙を極めた。時代劇などでは町奉行が一人で捜査に赴いたり、単身で事件現場へ乗り込んだりしているが、前述のように町奉行は高位の旗本の就く役職で、移動の際には駕籠に乗り、25人程度の同心や従者を伴っていたし、多忙な役職であるため、実際にはそのような行動は取っていない。また、時代劇ではお白洲のその場で町奉行が斬首、獄門や遠島を被疑者に言い渡しているが、実際には、町奉行だけの権限で言い渡せる刑罰は、中処払い迄で、重追放(田畑・家屋敷・家財没収の上、武蔵、山城等の十五か国及び東海道筋、木曽路筋への立ち入り禁止)以上の重い刑罰は老中に上申し、採決を待たねばならず(実際には町奉行は奥右筆の吟味方に調書を提出し、奥右筆が公事方御定書や過去の判例を元に判決案を作成する)、老中、更には将軍の最終決裁を経なければ刑の確定は出来ない。裁判は詳細に記録され後の裁判では判例として参照されていたが、関東大震災により多くが焼失した。 町奉行の役宅は奉行所内にあった。激務のため在任中に死去する者も多かった。 町奉行の配下は直属の隠密廻り同心及び、与力と、其の配下の三廻の定町廻り同心,臨時廻り同心である。他に直に任命した御用聞きの小者が加わる。その他に定町廻り同心が、私的に直に雇う御用聞き、目明かしと、下っ引きが使われている。奉行直属の配下である与力と隠密廻り同心、及び、それぞれの同心は将軍家の家臣(旗本若しくは御家人)であり、実質的な世襲制で奉行所に勤めていた。奉行は老中所轄の旗本であって、与力や同心たちとは直接の主従関係は無かった。奉行と主従関係にあった与力は内与力(うちよりき)と呼ばれ、通常の与力とは区別された。内与力は将軍からは陪臣にあたるので、本来は与力よりは格下であり禄高も低いが、実際には奉行の側近として上席与力の待遇を受ける事が多かった。講談などでは南北奉行所が互いに敵対関係にあり仲が悪かったかのように描写されるが、後述する南北町奉行所の関係(月番制や管轄)からも判る様に、むしろ、奉行の方が余所者であって信頼関係が薄かったとされている。 この為に奉行は与力に夏や冬に反物を贈ったり、業務が多忙な時に出勤した者たちへ湯漬けや鮪を自腹で供したり、火事場への出馬の際には与力や同心の弁当を奉行が自腹で負担する等、与力や同心の歓心を得ようとしていた。また町奉行は2-5年で異動する為(20年近く在職した大岡忠相や18年近く在職した根岸鎮衛等は稀であり例外である)、職務に関する知識を代々受け継いでいる、与力や同心を制御する事が難しく、地位は高いものの職務については配下の与力の言いなりになりがちであったという。
※この「奉行職」の解説は、「町奉行」の解説の一部です。
「奉行職」を含む「町奉行」の記事については、「町奉行」の概要を参照ください。
奉行職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:25 UTC 版)
長岡藩の奉行職は「御奉行」・「奉行役」とも呼ばれた家老職の補佐を行う常任の職。定員7名である。家格に特別な決まりはなく、役高は300石。郡奉行や町奉行などを統括し、実質的に藩全般の行政を動かした。 なお、『長岡市史』では300石高以上の者が任じられ、家格不定。家老同様に毎月交代で執務。当番者を月番といった。また、『新潟県史 通史3 近世一』では長岡藩の年貢割付状は承応2年(1653年)から明暦元年(1656年)頃までの一時期を除いて奉行の連署で発行しているとしている。 江戸武鑑に奉行が掲載されるようになるのは宝暦年中以降であるが、長岡藩に限らず、諸藩で奉行職がある藩(仙台藩や米沢藩)は奉行職を「年寄」や「中老」として掲載して奉行を呼称するのを避けており、長岡藩の場合は幕末までは「中老」や「年寄」の項目で奉行を掲載し、中老職が置かれた場合は「中老」項目内で中老とは差別されて掲載される。 なお、『新潟市史・資料編』14号の『新潟町奉行・町方役人勤役期間留書』の解説に原資料の『天保十亥年正月 貞亨元子年より諸役人留』に奉行の記載があったが、中老同様に省略した旨の説明がある。 また、町奉行・郡奉行・勘定奉行などの町方や地方(じかた)の行政職(役方)である奉行とは呼称が同一であるが、全く別の職制であり、これは奉行職の設置されている諸藩と共通する。 藩士の格としては、行政職(役方)の奉行と比較して格上である。奉行職を束ねる役職として、奉行組支配職が存在したことがあったが常置の役職ではなく、家禄400石から500石級の者から任命された。奉行には、加判の列の者とそうではない者が存在し、加判の者は、評定所(会所)の構成員となった。
※この「奉行職」の解説は、「越後長岡藩」の解説の一部です。
「奉行職」を含む「越後長岡藩」の記事については、「越後長岡藩」の概要を参照ください。
- 奉行職のページへのリンク