奉行衆として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 06:22 UTC 版)
天正5年(1577年)6月、信長の発布した「安土山下町中宛信長朱印状」の条文の中では打ち入りなどの際には秀勝や木村高重に届け出るように記されており、安土の町奉行のような役割を担っていた事が分かる。同年9月には信長を裏切った松永久秀の人質を成敗する奉行を矢部家定と共に務めるように命じられ、10月5日に刑を執行した。 荒木村重が謀反をおこすと、その討伐戦となった天正6年(1578年)11月からの有岡城の戦いに参じたが、これも戦よりも検使としての役割が主であった。この戦では古田重然・下石頼重と共に茨木城主の中川清秀の投降に尽力したことを高く評価され、戦後の天正7年(1579年)6月20日に信長より鶴と鷹を与えられている。 天正8年(1580年)12月には猪子高就・長谷川秀一・西尾吉次と共に高天神城を攻囲中の徳川家康の陣に派遣され、家康の陣所を視察して2日後に帰国。天正9年(1581年)3月には菅屋長頼と共に能登国へ行き、国内の整理に当たったという。同年12月3日ごろには下石頼重と共に中川清秀に対して西国に加増がある事を伝える朱印状を伝達している。 天正10年(1582年)1月15日の「左義長」には不参加であったが、同年2月より始まった甲州征伐では3月に出馬し、先の左義長で馬廻衆・小姓衆を率いていた菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一・矢部家定の4名に秀勝を加えた5人が信長の馬廻衆と小姓衆を統率して兵を進め、4月2日には甲斐国に到着したが、織田信忠の軍によってほぼ武田氏の掃討は完了しており、戦闘は無かった。
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